1990年代【中国改革開放の波】

2017年9月8日(金)

私は今回、ホームページでコラムを書くにあたり自分の海外での経験を少しばかり振返って考えてみた。現在、私は日本企業が会社に進出する際に、スムーズに進出が出来るように支援することを業務としている。実際に海外に進出するといっても海外も広い。北米・南米・ヨーロッパ・アフリカ・アジア(中東)と大きく分けても5つの地域区分が出来る。そこにはまた様々な国々があり、その国々にはまた独自の文化があるのだ。すべてに精通している人は当然いるわけはないのであるが特定の国に精通した人はかなりいる。私は自信が住み、事業をしてきた3つの国しか知らないのだがたまたまこの3つの国はこの30年間でそれぞれが経済発展してきた国々であった。

 

■第1回 1990年代(中国改革開放の波)

1991年、私は初めて中国という国に足を踏み入れました。かれこれ27年前のことになります。これが現在まで27年間もの長きにおよぶ私の海外の原点となります。あれから27年という年月が経ったことに我ながら驚くとともにこの間のアジアの大きな変革の流れを感じざるを得ません。私が初めて行った頃の中国は2年前(1989年6月)に起った天安門事件の影響で多くの日本企業が中国から撤退し、日本国内でも中国悲観論が渦巻いていたと記憶しています。世界的にも天安門事件の影響は大きく中国投資のポテンシャルはかなり低下していました。ただ翌年の1992年には鄧小平の南方講和で独自の社会主義市場経済を表明し、改革開放へ突き進んでいくことになります。日本企業も今はなきヤオハンが中国に1千店舗を展開するというキャッチフレーズで邁進していた時代です。マスコミもこれからは中国の時代だと言い始めたころだと記憶しています。私自身もその大きな波に飲み込まれていくことになります。
いま振り返ると中国の90年代初めはまさに今に至る中国大躍進の岐路にあり、凄まじい人間のエネルギーを醸し出していたことだけは今も私の体の中にある種の記憶として残っています。その後、ベトナム・ミャンマーの成長期にも身を置きましたが中国で体現したエネルギーを感じたことはありません。それほどまでに12億人のエネルギーは計り知れないものがあったということだと思います。
社会主義市場経済という世にも不思議な思想のもと政府主導で改革開放が推し進められ、中国奇跡の成長と言われる経済成長が一気に加速していったのです。当然、その輝く光の陰には数知れない闇もあったことは抗えない事実です。ただ、この中国の大発展の時期には影をも凌駕する輝きがあったことも事実なのです。私はその中にどっぷりと身を置き、その輝きの中に取り込まれていたのではないかと振り返ると思います。
話を戻しますと当時、日本からの中国進出は縫製業を中心とした低賃金を求め中国へ進出する形態が多くありました。その当時の進出先は中国沿海部が大多数でした。
では当時の日本人は中国をどのように見ていたのでしょうか。それを語るときに念頭に置かなくてはならないのは当時の日本がどういう状況にあったかということです。そう1990年代初頭の日本はまさにバブル景気真っただ中にあったのです。1985年のプラザ合意以降、急激な円高になっていき行き場を失ったマネーが日本の土地・株式へ流れ込み空前の土地ブーム・株ブームを巻き起こします。だれもが明日はもっと良くなると信じて疑わなかった狂乱の時代でした。その後の橋本政権下での総量規制でバブルアッという間に弾け飛び、1997年拓銀倒産、山一倒産と続く停滞の時代が始まり、俗にいうデフレの時代に突入していきます。