外国人起業家がスタートアップにベトナムを選ぶ理由

2025年5月25日(日)

コロナが大流行した時、日越友好協会京都支部が在京するベトナム人留学生や実習生など食糧困窮者に呼びかけ、京都の有名ベトナム料理店ベトキッチンのご好意で店内をお借し、米など食料品の配布と相談会を開催したことがある。
この際に手伝いに来てくれた女子学生で立命館大学映像学部を卒業した方だが、ベトキッチンのオーナーであるハンさんご夫婦はAPUの卒業生。共通した仲でもあるので、彼女はハンさん一家の日常をフィルムに収めていました。
雑談をしているとき、彼女はベトナムで仕事をしたい、と語っていたけれど、熱意は分るのだが、単なる憧れや現地情報として得る旅行気分の延長だけでは上手くいかないョと諭しました。よく似たケースは幾つもあるけれど、海外で事業や仕事をしたいと思う人は多い。テレビや雑誌などの影響もあるが、成功している人を見るといとも簡単に出来そう!なんて思ってしまう。だが資金はあるのか、仕入れルートや販売先確保は?現地でスタッフをどう採用するのか、文化や慣習の違いを理解できるのか、住い・店舗や工場などをどう借りるのか。申請も必要だが、特に社会主義国での事業には様々な制約がある。今は情報が溢れているからまだ良いが、昔はやってみなければ分からない事ばかり、実は相手も全く知らない。駐在者は誰しも我慢、粉骨の努力で乗り越えてきました。
また何にしても日本でプロとして通用するレベルの技術や能力を持ち、資格に恥じない仕事が出来るかだが、実際に就労許可を取る際、学位や公的資格証明書の提出を要求される場合もあります。加えて必要最低限の語学力があること、何よりも現地の食事を問題なく食する事ができ、現地の人に馴染んで、社会に入り込めるだけの行動力、何でも知ろうとする旺盛な好奇心は絶対に不可欠。学業成績が良いだけでは海外でのビジネスなど務まらない。即ち思うほど楽ではないのが実態。まさに千三つか、成功するのはかなり至難の技なのです。

今は問題が多いが、かつて来日したベトナム人実習生はハングリー精神に溢れ、日本の優った処を吸収しようと努力、仕事と語学を修得して還っていきました。
彼らは当時、ベトナムは世界の最貧国のひとつであり、なけなしのお金で来日、帰国して両親のために家を建てるとか、弟妹を上級の学校に入れるためにと、必死の思いで頑張った。これを認められそのまま日本に残った人もいるけれど、帰国して起業する人、語学と技術を活かして会社を大きく成長させた人もいる。
同じ様に何らかの目標があって訪越、そのまま現地で事業や店を経営する日本人もいたけれど、2000年前後のベトナムは国の経済レベルが著しく低く、貿易赤字が続く状態。外資系企業の進出によって経済が回っていました。給与はHCM市のような都会でさえ、大学を出て外国語を話せる人でも100ドルあれば良い方。地方なら40~60ドル程だが、それ以上に仕事がなかった。
これでは到底生活できないし、故郷に住む家族にもお金を送ることは不可能。
当時は大学進学率など10%程度。有能な若者は無理してでも大学に入って大企業に就職するか、苦学を承知で留学した人もいたが情熱は並大抵ではなかった。
経済が成長してくると、ベトナムでも専門的な知識が要求されるようになるが、発展を身近に知ると、近い将来に何らかの期待を感じる人は多かったのです。

実際に何処の国の人でも、母国の人へ料理を提供することからビジネスを始めるケースは多くある。筆者が初めて訪越した1990年代後半、HCM市には日本料理店を経営する人が多かったけれど、その殆どは料理の経験が無いとか、一旦帰国したが、懐かしくて大企業に辞表を出して舞い戻った。そこで始めたのが日本食料理店というシナリオは結構あったが、当時、味の良さはなど関係なく、大阪で言えばくいだおれ、何でもあり、という店が初期には多かった。それでも潰れなかったのは不思議だが、一番苦労したのが調味料の手配だった。
中国人は海外でビジネスを始めるとき、包丁と鍋だけあればなんとかなる、と云うのは正鵠を得ているのです。

さて現地のビジネス記事に掲載されたのは、初めのタイトルの通り。これにはあるイギリス人のベトナムで起業した経緯について書いてありました。
グレアム氏は2023年にベトナムを旅行した。この後、彼はベトナムに留まってビジネスを起業するなど努々思わなかったという。これは日本人にしても何れの国であろうが同じような経験を持つ人はかなり多いのです。
彼は元サッカー選手だったが怪我のため引退、アジアの観光地で店を開く予定でバリ島に行ったが競争が多くて断念。この後にベトナムに来て、生活し仕事をするのに理想的だとの感触を得たという。
1億人の人口、その75%が30歳未満で成長するという段階にあり、生活費とビジネスの初期費用は安いと思ったとあります。だが筆者にすれば遅いという訳では無いけれど、ビジネス黎明期というものでもなく、かなり発展して段階。然しだからこそ新しく要求されるものがあり、見事に時流と声なきリクエストにマッチしたと考えるのです。
ビジネスを始める際には時の女神が与えてくれる幸運もあるが、彼の場合にはサッカーをしていた経験が活かされる仕事に巡り合う都合のいい結果がやって来ることになる。だがこれは企業に属していて赴任を命じられたものではなく、即ち自らが場所を選んで、其処に定住しようという心意気が天に通じたともいえなくありません。こういう不思議さは理屈や理論で割り切れるものでなく、素直な気持ちと積極的行動から生まれ、天命として下されるようにも思えます。
最初のビジネスはCafeとAirbnbだが、やがてベトナムで殆ど知られていない負傷後のリハビリ需要がある事に気付いた。これは自身の経験が役に立った訳だが、スポーツ科学に基づいたリハビリなので、学位を持つ友人とベンチャー企業を立ち上げたのです。こうして英国とアメリカから機器を輸入しHCM市でアスリート専用のリハビリセンターを運営することになった次第です。
この国は運営費や人件費が低く抑えられるので、競争力に優位性があると判断したけれど、スポーツジムは結構昔からあったし、外国人や富裕層にはホテルで会員制もありました。だが所得が向上し、またアスリートが特別のメニューでトレーニングやリハビリが出来るだけの専門家はいないし、その教育をするセンターも筆者の記憶にはありませんでした。
昔取った杵柄ではないけれど過去の経験が活かせるのは重要だし、誰も気付かなかった市場性を見つけチャレンジしたのは、新たなビジネスを始める鉄則にも合致する訳だが、同時に彼は現地の女性を妻に迎えることとなるのです。

此処までは良いのだが、多くの外国人経営者が経験するところ、現地の文化的ビジネス上での課題の洗礼を受けることになる。
郷に入っては郷に従う必要性はあるけれど、彼が先ず驚いたのは従業員の遅刻。これに拠ってセンター開業時間が遅れるハメになったが、これはサービス産業に在ってはならない初歩的な常識。だが彼らには通じず、遅れても平気だし、連絡もなく急に休むことも実際にある。
また取引したベトナムの銀行とで、支払に支障がありその追跡が出来なかったなど困難が付きまとったとある。先進国での銀行ではあり得ないことが様々にあるけれど、これは一度経験しなければ分かりません。
先進諸国では当然のビジネスマナーとか、社会慣習に習慣になっているのだが急激な発展に社会に経済界などが追い付かないし、企業でも社内教育制度が整っているかと言えばそうではなく、先進諸国で普通に行われるビジネスに変えようとする気配などありません。
しかしこれに対処できたのはベトナム人の妻のお陰と彼はいうが、何なのか!
此処で重要なのは現地人脈。これが無ければ事業は続けられなかったとあるが、現地で事業を行なう上で何らかの形で大きな影響があり、何らかのトラブルが生じれば、力のある縁戚とか然るべき立場の人物に依頼する場合は茶飯事だし、大学卒業者同士でも強力なコネクションを持っています。
もうひとつ言葉の壁。何処の国でも同じだが、意思疎通をどう取るか。これは単なる通訳だけでなく、専門用語や現地の慣習などを理解した人物でなければ誤解を生む事にもなる。他国の文化をよく知り、しかし国際間の二次ネスはそれでは通用しないことを彼らに教えるのは重要。だから留学経験者は必要です。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生