ベトナムでの行事 不祝儀

2019年9月17日(火)

初訪越した際に葬送の列に遭遇。先頭は白い粗末な衣装を纏った年配の女性が三名泣きながらとぼとぼと歩いています。この様な光景を今は見かけませんが、中国の風習を受け継いだ泣き女。人数が多いほど生前に徳があったとされます。
都会は高層住宅が増え此処で葬儀はできない。寺院や火葬場の脇などにあるTHIEN LE(典礼)で行いますが、地方都市でも見かけます。だが都会でも本人が生まれ育った家で葬儀をするのが一般的。
大きな霊園もあり一切の弔いを行なえるプランも用意。将来的には住宅事情や社会変化で葬儀の仕方が変わって行くはず。ところが最近この公園墓地が金持ちに買い占められ投資対象になっています。住宅価格が高騰し投資先が変った結果、投資家から墓地を買わなければならないが、値段は当初の数倍にもなるという罰当たりな問題が起きています。

病院で亡くなれば家に連れて帰り玄関広間に安置。田舎なら此処に仏壇がある。喪主は頭を白い布で被い白く薄い簡素な衣服を着て荒縄の腰ヒモを巻くのは、身なりを構う余裕が無い程の悲しみを表現。家族親族は頭に白い鉢巻をします。
数名の白い軍隊調の制服を着た楽隊が、太鼓にトランペット、クラリネットからシンバルまでドンチャカ始めます。深夜まで騒がしいけれど逝く者への鎮魂なので苦情は出ません。連絡を受けた遠方の親族が来るのに時間が掛かるため通夜は長いが3日も続くと流石にウンザリ。
暑い所なのでドライアイスの量が半端でなく。これで儲けた日本企業もある位。
弔家には花輪が置かれ、クリスチャンは十字架、仏教徒は卍が記されています。僧が来て読経が始まります。祭壇には遺影が置かれ、長い線香を手向けますが、これは古来チャム族の風習。家の前には弔問者のためテーブルが設置、飲み物を酌み交わして故人の遺徳を偲びます。
やがて出棺。早朝5時、6時、朝もやのなか家を出て永遠の旅路に。狭い径では棺を担いで通りまで楽隊を先頭に進んで霊柩車に載せ、家族等はバスに乗ります。かつて模造紙幣をまいたのですが今は禁止。家族は服喪の間黒いバッチを喪章に付けるのが習慣です。

荼毘が増えたといえ土葬も多く、田舎は所有する農地に埋葬。その時の方位を占うので向きはバラバラ。棺桶がまた豪華、2千~3千ドルするので出費が嵩むが、そこは安楽に天上へと送る儀式で残された者の責務。日本の白木の類や環境志向で増加しているダンボールに生地を張った類はありません。
コンクリート製の墓碑と一体型の墓に安置しますが、日差しが強い南部は覆いをかけて故人を守るほど気を遣うのです。友人の家は大きな一族の円形墓所、地方ではこんな光景も目にします。

昔、農村では、葬送の列は舟(棺を意味)を艪で漕ぐ仕草をしながら、弔いの歌を歌いゆっくりと埋葬地へ進みました。子の場合、母親は同道を許されない風習。古い映画には一緒に行こうとする母親を、縁者が諌める切ないシーンが出てきます。土葬すると3年経てば掘り起し、遺骨を洗って壷に収めて墓所に葬りますが、今は社会が変化してきて縁者が遠方に住む事もあり厳格ではありません。寺の納骨堂に預けるのも普通に多いのです。

回忌には家族親戚が集まり食事を共にする Cungがあります。お寺さんが来て回向する場合もあるが、特別な料理は出ません。親しくなれば呼ばれますが格式張ったものでなく、宗教観が違っても自然体で菓子やビール等を持って行き、気兼ねなく車座になるのが喜ばれます。

散骨は聞きません。海が好きだったから洋上へとか、桜の樹の下でと、西行みたいな風雅で静謐な樹木葬など、個人の葬送の自由はありません。まして直葬など絶対にあり得ず、この先時代の変化と宗教観はどう向き合うのでしょうか。
ある時、日本から来た方と舟に乗り合わせ。内緒、と友の遺志で持参した小さな守り袋に入った白い粒。縁からメコンの自然へそっと還された方がいました。ロマンです。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生