・危険を冒してでも日本へ
チャウはこの年のテトに、田舎に帰ると称して友人などと別れますが、誰もがこの時期に帰郷するため疑わない。
一旦故郷のゲアンに戻り身辺を整理。また万一発覚の場合、妻に災難が及ばないために離縁しますが、本心まで伝えることは出来ません。
1905年5月ゲアンを離れ計画を実行。官吏になるためフエに戻るとウソを付き、実際には反対方向、北のナムディンに行き同志と落ち合います。
ナムディンもかつて王都ですが、此処の支援者宅で用意を整え港町ハイフォンに向います。当局は様子が変だと気付き始めたので注意し過ぎるほど慎重さが必要でした。
ハイフォンから小船に乗り、中国国境近くの小島へ商人に変装して上陸。其処から知人の村人が手引きして夜陰に紛れ中国の坊城県に潜り込みます。一行の一人タン・バット・ホーは抗仏の闘士で中国を転戦しているため地理に詳しく、広東語を話せたのでうって付け。もう一人ダン・トゥー・キンも40才の抗仏の闘士で最初から行動を共にした人物です。
この当時は現在と違ってパスポートは無く、問題や支障を生ずることなく入国が可能でした。
ようやく危険から脱した3人は、船と汽車を乗り継ぎ香港に渡り、ハム・ギ帝の元高官で亡命中のグエン・ティエン・トアットに会います。彼はすでに70歳を超えていたがチャウに共鳴。協力者の紹介と援助を惜しみませんでした。
後に上海に移動、さらに日本(神戸)に向います。神戸から横浜に行きますが、横浜には尋ねたい人物が居たのが理由。梁啓超と言い、恩師康有為と清朝光緒帝の支持を得て改革を推進した政治家で論客。西太后派のクーデターで挫折、日本に亡命していました。
4歳年下の梁が出版した政治改革の書はベトナムにもあり、チャウはこれを読んで深く傾倒していた座右の銘本。
言葉で意志を伝えることができないため、漢字での筆談ですが、梁はチャウの文章力や学識を見抜きベトナムから来た無名の闘士に関心を抱きます。
チャウは日本に来た理由を話しますが、梁は否定的な見解を述べ先に人材育成の方が大事だと意見。しかし犬養毅を紹介。そこから大隈重信、後に青年達が世話になる柏原文太郎、陸軍参謀本部次長の福島安正と繋がったのは全く幸運でした。
彼らにも同じように諭されチャウはがっかりします。如何に計画が甘くて杜撰、無鉄砲だったかを痛感。本を読むうちに、日露戦争に日本が勝利したのは奇跡ではなく長い人材の育成期間があった、という事実が判ってきました。
梁や犬養は初めからその事を念頭において大熊や柏原、福島という教育関係者を紹介、諭すように仕向けたのです。
福島安正は情報将校の先覚者で5か国語に通じた人物。松本藩士の出で12歳には藩主の許可を得て上京。後の東京帝国大学で研鑽を積み、江藤新平の関係で司法省に入省後、陸軍省に転じて武官として海外駐在。山形有朋に海外情報を伝える秘書役を担っています。ロシアは不凍港を求めて南下するはずと報告。
明治天皇から艦船建造費を下賜、この時から海軍が増強され日本海海戦の勝利に繋がります。
有名な単騎馬横断遠征はベルリンからシベリアを488日かけて1万4千キロを横断。世紀の壮挙として世界に伝わります。実際は情報収集で侵略の歴史を辿ってきたポーランド人に接触してロシアを調査。優秀で人徳と忍耐力のある希代の人物との海外評があります。
こうして時間を掛けて情報を収集して分析。戦争への準備は始まっていましたが、チヤウたちにはこのような術はなく、性急にことを運ぼうとする気概だけで勝てる訳など無いのが解らなかったのです。
さらに犬養はチャウからこの計画にフエの皇族が絡んでいる事情を聞き、将来ベトナムを日本と同じ立憲君主国にしたければ、クォン・デを来日させるべきと勧めます。チャウは革命に気がはやるばかりで、独立後の事まで全く考えていませんでした。
チャウは一旦ベトナムに戻る決意します。しかしゲアンに帰るのは危険過ぎるためナムディンで活動、再び日本へ3名の青年を連れて戻ります。
これが日本に来た最初のベトナム人留学生で、ここに東遊運動が始まります。
さらに多くの留学生を日本に呼ぶため、1905年に梁の支援を得て趣意書を作成、初めからの同志であるホーを帰国させました。
最初の留学生3名は陸軍振武学校に特別学生として入学を許可されます。この学校は日本政府と清国駐日公使が協定に基づいて設立しましたが、中国人学生が日本語を学び軍事教練を行なう目的がありました。卒業生は陸軍士官学校に入る事ができたので、当時清国軍人は士官学校を出た人も多かったのです。
この校長が福島安正。能力、徳、腹も座った人物がいたのです。
全員の顔つきが中国人に似ているため、中国名を名のり中国人を装ったという、大胆な無茶ぶりが通用した剛毅な時代でした。
株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生