立って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半。なんて日本で言うけれど、人の最低限の生活なんてこれで十分可能。だが実際にまともな生活が出来るのかと言えばそうでないのは明らか。健康で文化的な生活を送るのに、価値観や考え方はまちまちだが、本当にどれくらいの広さが必要なのでしょうか。
さては現地ニュースに掲載されたのが、タイトルにある様な驚くべき事実。
記事にはHCM市建設局の幹部の談話として、7区、12区、タンフー区、トゥードック市を中心に、約18万人が一人当たり4平米という住居基準を満たしていない部屋に住んでいることが分かったとあります。
この基準も基準だが、如何に住宅が慢性的に不足し、また充分な面積が確保できていないという愕然とする証拠でもあるのです。
建設局のキエット副局長が「国民の質問‐政府の回答」と称するプログラムにおいて、建設許可と建設秩序の管理に関する質問に対する答えとした内容。
HCM市には約8万軒もの個人向け賃貸住宅があり、62万9千室以上が貸し出されている。しかしこのうち約88%にもなる約55万5千室は、一人当たりの最低床面積である4平米以上という基準を満たす部屋であるけれど、12%ほどの7万4千室はこの基準さえ満たしていないという。こうした狭小の部屋がある区は7区、12区、タンフー区、トゥードック市に集中して、主に地方出身者18万5千人が暮らしているのです。
市はこの問題を解決するために、物件所有者に対して基準を満たすよう改修を進めることを要求することを提案しているとし、このための優遇融資や金利、電気・水道料金の支援、税制優遇などの支援策を提案している。
市では市内の賃貸目的の住宅の管理・支援プロジェクトの草案を造る際に、建設局は一人当たりの最低面積を5平米以上、路地の幅を4メートル以上、大通りまでの距離は100メートル未満、避難通路設置などの条件を課し、最低面積や消防安全基準を満たしていない場合は賃貸してはならないとしていました。だがこの様な条件に当てはまる狭小住宅など無く、こうした地域に無いので元々無理があるうえに、不動産価格上昇に拠る賃貸価格のアップ、これに拠る労働者の生活への悪影響があるとの意見が多く出されていた。
一人当たり4平米ということは、2メートル×2メートルということになるけれど、では実態はどうなのか。記事を読む限り市当局の担当者は何処まで実態を把握しているのか疑問に感じるのです。
またこの部屋がどういうものなのか、全く分かっていないのか、分かっていながら頬かむりか分らないが、殆どの日本人には想像すらできない訳です。
筆者は7区に居た時に、ある日本人とベトナム人の奥様が運営する学校施設でのボランティアをしていたことがある。学校自体は7区の人民委員会から志あるお偉いさんから特別に許可を貰っていて、卒業試験は地元の小学校でスクーリングを行ない試験に合格すると卒業資格が得られるということで、公立に準ずる格別の扱い。他に見られなかったほど優遇されていました。
だが外国人が何をしでかすのか戦々恐々、私服の公安に時おり見張られていた時期があり、我々が予期しないアホみたいな一面もあった。
この学校で学ぶ子供たちの親というのは、地方から出てきたのだが、当時はまともに小学校を出たのかも分らない。また何らかの知識や技能、経験がある訳ではないので、都会に出て来てもまともな仕事は無い。従って実家訪問をして実情はどうなのか見に行ったのです。そこで見た家というのは!
かつてこの辺りは殆どが湿地帯。だからこそ取り残された広大な地域であり、HCM市と台湾企業が埋め立て工事を行いタントアンEPZとPMF新都市の開発に着手した訳です。今では想像すらできないが、市中心からわずかに8キロ離れただけでとんでもないジャングルが存在していた。
ところがこうした波に取り残された彼ら。周りはニッパヤシが茂っている。
これを利用して壁と屋根を作るのだが、元々はメコンの田舎で同じことをしていたので得意中の得意な作業。あっという間に完成。然し家の中は土間のままで、家族数人がベッドで雑魚寝するけれど、広さと言えばほぼ8畳程度。まるで三匹の子豚の家というか掘っ立て小屋。風が吹けば直ぐ飛んで行きそうだし、何とか雨露を凌げる程度で全く以って不衛生。もちろん電気も水道も無く、蠟燭かバーナーに頼り、ガスの代わりに巻きを燃やすか練炭。飲み水は売りにくるのでこれを買っていたのです。
東京の大学生グループから連絡があり、学校での交流と子供の家を訪問したのだが、余りの酷さに絶句。男子学生でさえ涙していたのだが、まさに経済成長に拠る貧富の格差と地域格差(都市部と地方)の象徴であり、光と闇。
これは幾ら優秀な能力があっても親を選べず生まれ落ちた星の下、学力格差は自ずと出て来る教育格差でもあるけれど一体全体どこが社会主義なのか。
もっともHCM市でさえ子供が多いのに学校が足りない。全ての学校で2部制授業が行われており、良い高校へ進学し、大学へ行くことが親の夢であり、そうしなければ良い会社に就職できない。すなわち教育を金で買うというのは大げさだが、殆んどこういう状況。この実態を随分見てきました。
教室は大人数なので出来ない児童生徒は教師がホッタタラカシ。面白くないから辞めてしまうが、施設の子供は勉強したくてたまらない。そうして多くの日本人からの支援で文具や服などが集まり、台湾学校からも支援の物資を頂いたこともありました。
次に最近とみに急成長、市に昇格した旧トゥードック区。街並みはすっかり変わり、道路も拡幅整備されて高級アパートも林立する程になった。
幹線道路から少し中、道路から少し離れるともう縦横に小さな水路が流れ、バイク1台がやっと通れるくらいの細道に家が立ち並び、あるいは地方(ここは中部が多い)から来た人が住む長屋が幾つか点在しているが、元々沼地。殆ど取り残された超ディープ環境の近くに訳あって転居したのです。
この長屋、まさに2×2メートルほどの小さな部屋が多く、壁は煉瓦を積んだままで、屋根はトタン。地面は何とかモルタル抑えが多いけれど、中には小さな水場があるけれど、大体は共同のトイレと水場。プライバシーなどあったものではありませんが、この様な住環境の中で学生も含めて多くの人が暮らしていたのです。
ベトナム国鉄のビンチュウ駅(名前だけが残る)の近くに、教会が運営する学校があり、公立校に入れない地方出身者の子弟を教会が勉強を教えており、寄宿舎も敷地内に造って貧困家庭の子供を受け入れていました。
此処のシスターから、成績のいい子を支援して欲しいと頼まれ、一緒にどのような環境なのか確認に行った次第です。
すると母親は朝早く市場に行って魚類を仕入れて露店で売る。この間子供は学校へ行き、帰宅すればご飯を造る手伝いをしていた。雨の時はトタン屋根に打ち付ける音が怖く、幽霊が来ると怯えていたが、酷い時には床一面に水が入ってくる、それだけ地盤が低かったのです。
だがこれでは病気になるとシスターを相談して転居。少々マシな環境に移ったのです。少なくても電気が通り、プロパンが使え、住戸内に水場がある。
この小さな長屋は地方出身者の家主の庭にあり、4軒あった。何度か行くうちに家主とも親しくなり結構子供の面倒を見てくれていた。まるで昭和の時代に日本でもそうであったと記憶があり何か懐かしい。
時の経つのは早いもので、やがて学校を卒業し、この子はHCM市の幼稚園教諭を育成する学校に進学。何しろ授業料は免除だったのが選択の理由。
教師となり、事情もあって故郷のブンタウへ戻って行ったが、ときおり家で家庭料理をご馳走になったけれど、やはりこの味が舌に残っています。
こうした縁というのか、誰もが簡単に作れるものではないが、やがて成長し、人並みの生活が出来るようになれば、受けた温情は国を超えて何らかの形で還元してくれるのかと思っている。支援するとかではなく、自然な形で応援というべきか、打算も駆け引きもない同じ目線が大切かと感じます。
国際交流は国が相手国に巨額の資金を供与してインフラ整備行い国力や経済の活性化を支援するだけでなく、底辺の民間人同士の触れ合いが最も大切ではないかと思えます。
株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生