ベトナム戦争被害者が韓国政府相手に民間人虐殺を初提訴

2020年6月29日(月)

・ベトナム人被害者が原告となって韓国政府を提訴

韓国メディアは4月21日の報道で、弁護士団体「民主社会のための弁護士会(民弁)」が、ベトナム人女性グエン・ティー・タン(60)さんを原告とし、ベトナム戦争で韓国軍により虐殺被害を受けたと主張、韓国政府を被告とした初の賠償請求訴訟を起こしたと伝えました。だが金銭が目的でなく名誉のため。
1968年2月12日、タンさんが8歳の時、当時住んでいた中部クアンナム省フォン二ィ村を韓国軍の青龍部隊が襲撃、非武装の民間人79人を虐殺しました。この中でタンさんの身内では母親と姉・弟、伯母・いとこ5名が犠牲となり、彼女と兄が大怪我をしながらも生き残こりました。しかし戦後45年、未だに後遺症に苦しむ悪夢の日々を過ごしているとあります。
タンさんは2019年4月に訪韓。虐殺被害の真相究明調査、事実認定、謝罪、被害回復を求める請願書を、被害者と遺族103人で韓国大統領府に提出しました。しかし韓国政府は同年9月25日にこれを拒否すると伝えています。
政府の公式回答書には当時の戦闘記録などを確認した結果、民間団体や請願者の主張する内容は具体的に確認されていないとする欺瞞が書かれていました。
これに対して民弁側は、国防部が記録にないとして虐殺事実を認めない回答は間違っており、タンさんの具体的な被害証言、米軍の公式記録である駐越監察報告書など、様々な虐殺の証拠を明らかにしています。だが法曹界で戦争犯罪を国家間の条約でなく、個人による相手国提訴という形の解決手法には懸念がある。民事訴訟である国家賠償訴訟なら、不法行為が行われた日から5年以内に提起しなければならず、消滅時効が争点になると指摘しています。
韓国ネットでは、民弁とタンさんにお門違いと冷たい突き放しが圧倒的。自国の犯した不当行為を認めない。またベトナム・メデャアでも報道は見ません。

・大量殺戮暴行事件 先ずアメリカ軍の行なった許されない有名な虐殺行為

「MY LAI FOUR」というイタリア映画(2009年・Moon Light)があります。ベトナム戦争の映画を多く撮っているオリバー・ストーンがこの実際にあった事件を映画化しようとしましたが、圧力がかかりやむなく中止した経緯があります。触れて欲しくない恥部には蓋、未だこの事件にアメリカは神経質を尖らし表に出さないが、明らかな事実を参戦兵士が自ら告白しました。
一般的には「ソンミ村虐殺事件」というほうが解かり易いのですが、ベトナム中部に平穏に暮らす長閑な寒村がありました。
1968年3月16日事件は起こります。米軍歩兵連隊のウイリアム・カリー中尉が率いる第一小隊105名が、クアンガイ省ソンミ村ミーライ地区で非武装・無抵抗の村民503名を無差別銃撃。男性149名、女性183名、乳幼児・子供173名が犠牲。女性には代わる暴行とレイプを繰り返した上に殺害。生存者は僅かに3名でした。
この時ヒュー・トンプソン准士官が操縦する偵察ヘリコプターが上空を通りがかり、多数の死者と暴行銃撃を目撃。彼は上官へ無線で救助ヘリの派遣要請と着陸。身を挺して生存者の救出を行い、さらに兵士に対して虐殺行為の妨害を試みました。彼の報告は上層部でウヤムヤにされ、勇気あるトンプソンは口封じのため危険地帯へと秘密裏に転属させられますが幸運にも生還しています。
米軍側の負傷者はハーバート・カーターという黒人兵一人だけ。彼は悪辣な行為に耐え切れず、虐殺に加わらないで済むように自ら足に向けて銃を発射したのです。前線は永住権をチラつかされて志願した黒人やヒスパニック系兵士が多く、哀れみ深かったと言います。これ等のシーンは映画にも出て来るほど。
他にも加担しない兵もいましたが、ゲームの様に強姦と殺戮まで悪の限りを尽くし、村の全てを焼き払い証拠を消すためブルドーザーで整地した確信犯です。
当初は村民に対する蹂躙虐殺ではなく「解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされ、ソンミ村での大虐殺事件は隠匿。しかし事件から1年後ベトナム帰還兵のライデンアワー氏(当時33歳)が国防長官にソンミ作戦の再調査を求める呵責の手紙を出したのがきっかけで、事件が明るみになりました。氏の告発でワシントンの地元紙が中尉の居所を調査、ニューヨーク・タイムズ紙などが報道したことから、事件に関わった元兵士が次々に名乗出て、さらに現場写真(元従軍カメラマンのロナルド・へーバリー氏)が公表され、これが動かぬ証拠となって世界中が知るところとなったのです。
国防総省は中尉を軍法会議にかけると発表、ホワイトハウスも「こうした事件は全国民の良心に反する」と遅まきながら世論に屈して声明。正義と平等を猛アピール。こうして関係者30人が召喚され軍法会議にかけられた結果16人が告発され5人が起訴されますが、軍法会議は早くも1971年3月に結審。判決は中尉だけが人身御供で有罪となり労働付き終身刑を宣告されました。
ところが、その後控訴審で10年の有期刑に減刑されたのに続き、あろう事か判決の翌日、ニクソン大統領は直ちに特赦による即時釈放を命令。カリー中尉は1975年10月仮保釈となり一転して自由の身になりました。これは自国の軍隊が起こした戦争犯罪について、自ら正当に裁けないということを如実に実証し、さらには戦争最高責任者が大統領であるという証明の他ならず、犯罪者になるのです。だからこそ無理やり幕引きを図ったのが真相です。
事実ジョンソンやニクソンは具体的な爆撃作戦や爆弾の使用まで事細かく指示を出し、現場の指令官は素人のバカさ加減に嫌気をさしていました。アメリカは軍事費に困窮、負けを嫌った世論に負け、軍内部からも崩壊してゆきます。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生