ベトナムの民族 文化と歴史② 強い地縁血縁意識だが

2020年11月29日(日)

・キン族 今に及ぶ民族性と意識

ベトナム人の地縁血縁意識は濃い。これが社会基盤だと言っても過言ではなく、まさに米耕作文化の具現化「村社会」。長老を中心にした「Lang・ラン=村」が依然として残る社会的制度で機能でもあります。特に家族関係の絆は深く仕事より家族を優先する気風が未だに残っていて、会社などへの配慮や罪悪感は殆ど無いといっていいほどで、「出来ないなら辞める」だけの事。約束しても連絡なくすっぽかす、相手の都合など気にもせず、迷惑をかけたという気持ちすら見当たらない。本来これではビジネスではあり得ないがまかり通るのが不思議。
親類間における交流は頻繁であるといえます。そして同じ出身地、大学、組織、軍関係等、小さな単位であったとしても日本よりはるかに連帯意識は堅固で、例え仕事でもかなり優先度は高く必要不可欠なのです。科挙制度があった時代には一族から合格者を出すことが名誉であり、一族郎党が後世まで栄えるため、一家一族全員が一致団結し協力しあうというキズナ意識もこれに起因します。
実際に現地で生活し、ビジネスを行なうとこれが実社会や実生活の場で平然と繰り広げられ、同じ農耕民族であっても国民性の違いは歴然と現れます。だが成功者を頼っても、処遇は隷属的であるのも昔の日本の封建時代と同じ。
唯一神との契約における権利義務や個を重んじる西洋人には煩わしいのですが、彼らは至って平気。従兄弟の友人のまた知り合いとかが、実際に友人宅に遊びに来て何日もその家族と一緒に過ごし、その為彼らに部屋を空け毎食の食事も用意するほど。知り合いの日本人は度が過ぎるので奥さんに聞くと本人は会った事すらない、ただ故郷の××の知り合いだから、とする人とのご縁です。
私もメコンの果ての外国人など一切来ない地域、フエやダラット、ニャチャンなどに行った時に鉢合わせた経験があります。何となく共に過ごすといつの間にか友達の友達も友達サ気分になってしまう。ごろ寝しながらDVDを見る、親の会合などに招かれる、友人の友達や親類の家に訪ない無しに食事に行っても歓待されると、我々にも宿っているのであろう農耕民族のDNAがすんなり受けてしまうのです。が日本人よりその関係は幾分異なっている様でもある。

ベトナムは中国から1000年に渡って支配を受けています。中国は同化政策を採り、官僚組織、社会制度、宗教、漢字などあらゆる文化を強要し、国民へは隷属的圧政を行ないました。また中国皇帝に貢物を献上しなければならず、このため家内制手工業が発展したと考えられる。税は人頭税と土地税を収奪、土木工事には強制就労させられました。しかし一方で民族意識に目覚め支配に抵抗する英雄も王朝毎、時代々々に出現しています。
西暦40年に起きたハイ・バー・チュン(チュン姉妹)の反乱もそのひとつで、漢の光武帝軍に捕われ二人は斬首。今も敬意が表され道路の名に冠されるほど。
その後幾度となく反乱は続きますが全て平定され、唐の時代767年には阿部仲麻呂が玄宋皇帝から安南都護府に任じられたのは有名な史実。その後も抵抗は続き、ようやく939年にゴ・クエンの戦勝で支配から脱します。

・チャム族 勇敢な海洋性部族

中部はチャム遺跡が多く残されている地域。ダナンのチャム博物館には彼らの彫刻(子孫繁栄の性器崇拝=リンガとヨニ)、神々の像が多数展示されています。チャム族の王朝をチャンパ(占城)と呼び、独立国家ではなくほぼ北緯18度線から南方に4地域に夫々の王が支配する連合国家が繋がっていました。
文化、習慣、生活様式等は異なり、国家間での諍いは多発したが、婚姻関係を作り同盟関係の強化が図られました。北からアマラヴァティ王国(クァンビン省・フエの北部ガン峠辺り⇔クアンガイ省)。ヴィジャヤ王国(ビンディン省⇔クアンナム省⇔フーイェン省)。カウターラ王国(カィンホア省⇔ビントァン省)。パンドゥランガ王国(ファンティエット周辺)の4国。
チャンパ王国が起こったのは西暦192年。今のフエ辺りだと考えられます。
チャム族はインドネシア系混血民族で、マラヨ・ポリネシア語族に属し航海術に長けており、南シナ海の高度な文明を持った海洋民族が中部に定住したのが起源と言われます。これを証明するのがクアンガイ省の海岸サヒン遺跡からの出土品。フィリッピン、ボルネオ島、マレー半島の物と同じと解明され、交易を行う広大な海洋環状文化圏があったと推測される要因です。
元来は母系社会で結婚は娘の側から申し入れ。夫は妻の家に棲み、妻が死ぬとその家の女と再婚しなければいけない厳しい掟がありました。人が亡くなると荼毘に付されたと言う位なので、暑い地域という衛生的理由はあるにしろ文化的でもあった様です。

西暦150年頃、クメール族はプナム(扶南)国を成立させ7世紀迄続きます。その勢力はマレー半島からビルマに及ぶ交易国家として栄え、インド文化に深く係わり大きな影響を受けましたが、チャム族とヒンズー形式寺院の建築様式や宗教儀式などは共通していたと思えます。
4世紀から9世紀にかけてダナンの南方30キロにチャキュウがあり、ここは347年北に侵攻したファン・ブン王の孫、ヴァドマルマンがハイ・ヴェン峠を越えて南に勢力を伸ばして作った王都です。インド文化の影響を強く受け、ヒンズーの神々を祀るため聖地ミー・ソンを造営。更にその東が天然の良港であった交易都市ホイアン、盛んに諸外国との貿易を行なっていました。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生