ベトナムの英雄列伝 ~近世民族独立闘争烈士譚①~

2021年6月4日(金)

ベトナムを旅された方は覚えがあるでしょう。交差点で道路名が書かれた標識を見ながらガイドブックと照らし合わせて位置を確認したものです。
何処へ行ってもよく似た街並みだし、太陽高度はほぼ真上なのでどちらが北か南か分らない。角に立って指をさしながら話し合っている光景を見かけました。これを目にしてカモにされた経験を持つ人も居るが、概して日本人は海外では疑いもなく笑顔で応える。海外を旅行して本を人前で見てはいけない訳は危険だからで、脇の甘さを戒めています。
現在はこんな面倒なことをしなくてもスマホが案内。しかし中にはこの通りの名前の由来は何かと怪訝に思われた方もいらっしゃるでしょう。

この通りの名称。日本は比較的分かりやすい。歴史がある京都なら地域の云われやかつて商売をしていた名が残され、ほぼ真北で碁盤の目になった都市造りなので、上ル、下ル、西入ル、東入ル、などそのまんま。
ハノイ旧市街でも名前が漢方薬店通りとか、かつて銀細工を販売していたなら銀屋通りなど今に呼称が受け継がれ地図に載っています。
ベトナムの通りは時を経て英雄の名を冠していることが全国の都市で多く見受けられます。歴代の人物で故国のために戦ったとか、政治家などの人物。だがそういわれても外国人には分かる道理などありません。この国の歴史に興味がなければなおさらどうでもいい。
もちろん現在の体制から見て合わない人物に関しては、いくら有名であっても
その栄誉に与れません。

今回、このベトナムの歴史上の英雄に付いて、近世フエ王朝時代の歴史と併せ逡巡してみましょう。これらの人物に関する記録が残っています。
以前、ファン・ボイ・チャウとクォン・デを中心に民族独立運動の系譜を辿りましたが、この項では先の二人以外にフランスを時に翻弄。名誉に恥じず徹底抗戦を行ない独立のために潔く殉じた人物像を探ることにします。

・近世のベトナムの歴史から フエ王朝の流れの中で

近世ベトナムの歴史は1858年8月31日、フランス軍艦によるダナン攻撃から状況が急展開します。フエ王朝は圧倒的な軍事力と戦略に勝るフランス軍の攻撃に次々屈し、各地で起きた抵抗勢力も近代兵器と巧妙な戦術により壊滅。ほどなく全土が侵略され、支配されて王朝の必死の抵抗も空しく爾後一世紀に亘ってフランスの被植民地支配国へと突入してゆきます。
フランスはやがてインドシナ全域を手中に収めると、インドシナ総督府が全権を掌握し植民地経営を徹底して進めます。一般民衆は奴隷のごとく過酷な弾圧と税に苦しめられ、使役として海外での戦争に10数万人も兵士に駆り出されるが、国家は為す術が無く搾取と収奪で経済・社会は疲弊してゆく一方でした。

千年間にも及ぶ中国の支配から、939年にゴ・クエンが明を破って抜け出し、さらにレ・ロイにより1428年、本格的に中国から独立を果たしましたが、グエン朝の時代、また新たに始まるフランスによる植民地支配の中に於いて、人民は民族独立に向け激しいレジスタンス抗争を繰り返して行きます。
グエン朝では宮廷官僚の腐敗が続いたものの、その中でも優秀で清廉・高潔な人物も居たし、各地で能力に優れ勇気ある指導者が現れ一般民衆と蜂起。反仏武装闘争も頻繁に起きていました。

初代嘉隆帝はフエにグエン朝を起こしましたが、南部はレ・ヴァン・ズエットが副王として治めます。嘉隆を政権の座におくったのは総司令官として西山軍を破ったズエットの功績だったとあるが、この時フランスの力を借りた安易さが後に植民地の萌芽を生み、禍根となる大きな要因となったのです。

1819年、嘉隆帝は枕頭で明命(ミン・マン)を跡継ぎにと命じるが、真っ向から反対したのがズエット。第二夫人の子であるため正式な皇位継承権は無いと主張。この人物は実直で果敢だが冷酷な武将。官僚や未統一地域の民族からも恐れられ、明命帝も彼が存命中は手が出せなかったとフランス人宣教師は本国への報告に認めています。
フランス大嫌いの明命は遺恨に烈火の怒りは収まらず、その復讐心はズエットの逝去後までも凄まじく残り、墓に百回の鞭打ち刑を命ずるほど。ズエットの養子になったレ・バン・コイはこの屈辱に対し、南部を収めていた嘉定(ザー・ディン:現ホーチミン市)城を拠点にして明命に反旗を翻すが勢力基盤は脆弱であったため帝が送った刺客に毒殺されてしまいます。

この時代はまだ全国統一がされておらず、地方でグエン朝への反乱が続き政治的安定は確保できていませんでした。
北ではノン・ヴァン・ヴァンがヌン族と通じ4省を支配し、相次いで反乱を起こして王朝の威信は揺らぎます。さらに明命帝は儒学を修めた人物なので徹底した外国嫌い。キリスト教を迫害し欧州の近代文明導入を拒絶した鎖国政策はベトナムの近代化を遅らせ、またフランスとの関係が急速に悪化を辿る一因になったといえます。
この当時アジア情勢は不安定。タイはベトナム侵攻の機会を狙っており、他の欧州列強国もアジア侵略を加速。英国は卑劣な手段で清朝攻略を仕掛け、近海の海賊もこうした外国勢力と結託して複雑な様相を呈したため、明命帝の警戒心が強いのは当然の事。
欧州列強の中でアジア侵攻に遅れを取ったフランスは何としてでも豊かな富を手中に収めようと虎視眈々。この時勢に一気呵成、流れにうまく乗じたのです。

個人的にフエ王朝の陵墓の中で最も気品があって秀麗なのは明命帝陵だと思います。少々中心部から離れているため船で行くが、それだけに訪れる人は少ない。静寂の中、山肌に造営された建築物の佇まいは他の美陵と違い決して華美を求めず飾らない。以前に日本の宮大工の手で修復が行われました。
フエ特産、ベトナム版養命酒は、明命湯(ミン・マン・タン)と名付けられ、滋養強壮にいいとする薬用酒。瓢箪型陶器の瓶は趣があり効きそう。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生