ベトナムの英雄列伝 ~近世民族独立闘争烈士譚③~

2021年6月14日(月)

抵抗勢力は壊滅状態だがヴォー・ユイ・ドンという副司令官が引き継ぎます。彼は拠点をデルタ北部、カンボジア国境に近いドン・タップ・モイと呼ぶ湿地「葦の平原」と呼ばれる地、何処にいるのか解からないほど広大な平原に移動。雨季には見渡す限り沼地と化す地帯で、フランス軍に突如葦の陰からゲリラが襲いかかり忽然と退却。大きな被害を与えます。
ドンはその後マラリアで没し、後を継いだキュウ副司令官も戦闘で倒れ、この地域での抗仏ゲリラ活動はここに終止符。

メコン西部のラック・ヤーではグエン・チュン・チュックが200人の同志と自衛軍を組織し反仏闘争を展開。嗣徳帝は彼をハティン省の軍司令官に任命。しかしディンを裏切ったタンはまたもや彼の母親を誘拐してチュックに母親を殺すと脅迫。彼はやむを得なく降伏して処刑されます。
チュックは「刀で艦船に立ち向かう」と急襲作戦を立て、フランス軍艦「エスペランス」がメコン河支流に入ったとき、150人の同志とシエスタ中の隙を狙って乗り込み士官や兵士をメッタ切りにして大量の武器を収奪。船に爆弾を仕掛けて逃走した逸話があり、これで彼の名が知れ渡り嗣徳帝は地区司令官に任命しました。
フランス軍は報復措置として近郊の集落を一斉攻撃。無抵抗の村人全員300人を虐殺します。

グエン・フー・ファは科挙の合格者で進士。若者を組織してメコンデルタ東部で抗仏運動を展開したが、アジトがフランス軍に発見されチャウドックで逮捕。レ・ユニオン島に流刑された後に釈放。再び活発な闘争活動に入るがフランス軍の執拗な攻撃で拠点は壊滅。サイゴンに送られて見せしめのため公開処刑。「死を恐れていてはレジスタンス活動などできない」と平然と辞世の詩を残して堂々と断頭台に消えます。
ここに南部での反仏抵抗勢力は壊滅、独立運動は終焉を告げます。

北部ではホアン・ホア・タムがフランス軍を長期に亘り苦しませた人物だが、デ・タムというのがニックネーム。HCM市の通りの名前になっていて前者は空港近く、後者は1区の外国人旅行客が集まる所なので馴染みがあります。
20歳のとき抗仏運動に参加。農民であった養父が作ったゲリラ基地で活動。策略家としての才能はフランスへ大打撃を与え、「イエンテの虎」と呼ばれ親分タイプの太っ腹と軽いフットワークで神出鬼没のゲリラ戦を展開しました。
活動範囲はハノイ中北部山岳地帯から中国国境周辺に及ぶため、大規模な掃討作戦を展開。次々にゲリラ基地を壊滅していくが拠点に誰もいない。
業を煮やした当局は一時停戦を行い作戦の立て直し、タムも一旦これを受け入れました。しかしこのまま黙ってみている訳に行かないと、狸か狐腹フランスは僅か2ヵ月後、一方的に停戦を破棄し再び攻撃。タムも先読みで相手陣営に送り込んだスパイの応援を得て攻撃のタイミングを見図っていたのです。
タムは新しい武器を入手し武装勢力はなおも激しい抵抗を続け、ハノイ中心部の攻撃を計画。しかしこれは事前に漏れて多くの逮捕者を出し、多くの配下が処刑されます。またゲリラ活動を行なった44人をイエンテで見せしめ処刑。これで反仏活動は収束したと宣言するが肝心のタムの消息は一向に掴めない。懸賞金を出してまで身柄確保を計りました。
山地に潜んだタムは抗仏ゲリラ活動を続けますが、1913年2月、裏切り者に殺害された説もあるが定かでない。
ファン・ボイ・チャウはタムを頼って来て山岳アジトで会い独立闘争へ支援を依頼。呼応したタムは維新会に加入しています。

このほかグエン・タイ・ホックはハノイのインドシナ大学に学び、社会主義による改革に興味を持ち、このため友人と共に出版社「南同書社」を作って主にヨーロッパの社会改革を主張する出版物を販売。当局は政治的意図を持つ書籍に事前検閲を義務付けていてこの本が検閲第一号。
彼は比較的穏健な考え方の持ち主。非暴力、平和的活動での改革を目指したものの秘密警察に出版物の件で疑われます。
この経緯があって考えが変わり、1927年北部の代表が集まった第一回大会では独立のため武力闘争により植民地支配を転覆させる事を決議し、ベトナム国民党を結成。彼は中央委員会議長に選出されました。

1930年2月9日、北部各地で国民党は一斉蜂起し総攻撃が行なわれますが、物量に勝るフランス軍への攻撃は簡単でなく、当局の反撃が始まると指導者は逮捕。武器類は押収され、党員は次々に拘束。グエン・タイ・ホックは辛くも逃亡するがハイズン省で囚われの身に。
早くも3月28日には軍事法廷が開かれてホック始め40名に死刑。50人にプロコンドル島への終身流刑、34人には終身重労働刑を宣告。全員が死罪を覚悟して黙秘したが彼の妻であるゴー・バックは尋問に何も答えず「フランスへ帰りなさい。ジャンヌ・ダルクの銅像を引き倒したら答えましょう」と笑ったとされます。
彼はフランス議会とインドシナ総督に宛て、「自分ひとりに責任があり、他の者は責任が無く罪にしてはならない。非人道的政策を即刻改める事、自由と人権、新聞の自由を復活させる事、不正を働く官吏を使わない事」を要望しています。
6月16日に幹部13名が処刑される日、「我々は敗北した。しかし断じて犯罪人ではない。国のために死ぬのはもっとも純粋な事だ」とフランス語で語り、最後の13番目にギロチン台に上がるときは水盃を断り、誇りを失わず笑みを浮かべ「ベトナム万歳!」と叫んだとの記録がある。
この事件に連座して国民党員のうち3千人が犠牲になり、党は次第に消滅してゆきます。

ベトナムの歴史は諸外国からの侵略者に対して民族独立を勝ち取るため、勇気ある時の英雄が立ち上がり、近代的な武器や戦略を持たない中でのゲリラ戦。生命を屠ってまで名もなき一般民衆と共に戦った長い抵抗の繰り返しの歴史でした。この民族のDNAは、第二次大戦が日本軍の敗戦で終結し、同時にホー・チ・ミンが天と時の利を得てベトミン軍が台頭してゆきます。彼の死後ようやく1975年アメリカに勝利。真の独立を勝ち取るまで連綿と続きました。(了)

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生