ベトナム共産党と南北融和問題 「統一後50年を経ても残る南ベトナム出身者の被差別」

2026年5月7日(木)

上記のタイトルにある記事だが、実は日本人が書いたもの。しかし現地に住み、仕事をしているものではなく、内容的にはお粗末としか映らなかった。恐らくこの様な記事が出たとしても殆ど人は国内の政治に関心がないと言っても良く、ベトナムへ旅行に行っても、南北を縦断して観光をした所で何かしら気になる印象を受けることなどありません。さらに転勤でベトナムに赴任しても中々気が付く事はなく、暫くして何らかの事情から分かって来るのだろうと思います。
恐らくこの国が共産党一党の社会主義国家であることさえ気が付かないままに、食事が美味しかったとか、南国の果物がいっぱい食べられた、民芸品が綺麗、海が美しかったのでもう一度行きたい所なんて感想を抱くのが関の山。
しかし筆者などは学生時分、まさにベトナム戦争の真只中。学生運動やデモのシュプレヒコールがベトナム戦争反対!経験したものでなければ分からなくて当然だが、戦争を知らない今のベトナムの若者も同じ。筆者はコロナ禍が収まって6年間も渡越していないので、この様な記事が出ていて少々ビックリです。
筆者でさえ初訪越した際、宿泊した民家の主人と親しくなり、爾後ベトナムで仕事を始めてから何回も自宅に遊びに行くにつれ、戦争当時の様々な話を聞く機会を得たのでやっと真相が理解できた。また仕事を通じて北部からHCM市に来た家族の話、また結婚してHCM市からハノイ市へ行くことになり、現地で日本料理店を再開した経営者に会った時の話。これらを総合すると2000年が始まった時点では、差別というよりも南北経済格差は歴然とありました。
なぜこのようになったかについては、話が長くなるので後で少し触れるだけにして、この方が現地に行かれて、感じた事を書かれた現在の現地事情について要約してみます。また記事の前半は彼がほぼ半世紀前、学生であったベトナムの当時の概況をしたためているので省略しています。

・共産党は庶民には縁遠い存在なのか

記事には今年に訪越した時、ハノイのホテルでオーナーである女性と話をした。
彼は友人、知人、親戚などに共産党員が居るのかと質問をしたけれど心当たりはないとの返答。同じ様に旅行中にも親しくなった人に聞いたが、殆どは居ないというのが普通の回答だったという。これは当然で聞く方がどうかしている。
それもそのはず共産党員は520万人で1億人の総人口としても僅かに5%程。
すると20人に一人はいる訳だが、普通の生活をしていれば関心はない、特に南部では極めて少ないと思ったという。中国では約15人に1人だが、同じ質問すれば必ずいると答えたので、何故ベトナムでは知らないというかは疑問?
他国の政治や国家体制など考えてみればどうでもいい記事。何故そこまで固執するのか不可思議だが、観光に行って楽しければそれでいいのではないのか。
仕事で赴任、業務上で何かトラブルがあったのなら分かるが、そうではない。
だがニャチャンで出会ったバックパッカーをしていた女性と話をしていると、まさにこの方の勤務する会社が国営企業、幹部は殆どが共産党員であるというがそれは当然でしょう。ところが実際にはネットでは南北の人が互いに悪口を言い合っている様だという。今の若者は戦争があったなど知らず、祖父母から聞くとか、歴史の授業で習った程度で関心もない様だと感じたという。しかし北部で生まれ、彼女の伯父が戦争で無くなっているためか、過去は分らないが、現在は統一後に政府は差別なく南北へ平等に富を配分していると、政府を擁護する様な発言だったと記している。だが本当にそうなのでしょうか。

・いくつか事例に遭遇する どうして南の人は北が嫌いかは歴史が物語る

では今では本当に格差が無いと言えるのか。まず筆者の事業パートナーの例、彼はHCM市国家大学を卒業して市役所で部長職を経験後、ハノイの本省に移ったのです。日本などへ労働者を派遣する監督部署だったそうだが、ある時、昇任の話が出て、その為には党員でなければなれないという。そこで決断したのは辞職してHCM市に戻り、知人の会社で日本語教師の職を得たのです。
なぜ南部出身が自ら北に行き、エリートコース職なのに断ったのか?その事情には明確な答えはなかったが、其処までして幹部になりたくなかったという。
別の知人の場合、彼は南の兵士。戦争が終わって何十年にもなるのに駐留していた中部のチューライ基地に派遣された。その仕事とは埋まった地雷の除去、危険だが半年この任務をさせられた。彼の父親は将軍、戦後キャンプに送られて、思想改造教育は数年間に及んだ。ヒラの知人は一年間で済んだが、公務員や国営企業に務められなかった。何しろ就職する際には過去の身分を調べられるのです。だから優秀な人は南部に多く起業した訳だが、流石のかつて東洋一の商都であったサイゴン人のビジネス遺伝子が生き付いています。
市内中心部の家の空調工事を請けた。日本人が借りて物件を日本人に貸す訳。打ち合わせで家主と話をする機会があり聞いて驚いたのは、当時30歳代の女性だが南に進駐した北出身の父親が住み続けたのを貰ったという。ドサクサに紛れて自分のモノにしたというのが真相、実は戦争が終わり多くの兵士は帰郷。だが幹部はこのように目ぼしい資産を手当たり次第に手中にした歴史がある。因みにこの方は日系大手有名企業に勤務。事例は幾つもあるが、特に南部では上記の禍根が未だに消えない。外にもこの所の中央政府の動き、公安の活動にしても長く居ればいる程、住民監視社会であり権力国家であるという事に気が付く。好きにものが言え、好きな所に住むことが出来る、日本人で良かった。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生