・フランスのインドシナ進出の理由と植民地支配への道
ヨーロッパ列強の中で植民地の開拓に遅れを取っていたフランスは、ようやく17世紀になってから宣教師の布教活動や貿易を通じ、インドシナに足がかりを求める事になります。まず宣教師、その次に武力は当時の侵略の歴史的公式。
ヨーロッパ人の食生活にとって、当時金と同じ価格であった胡椒や香料などは日常欠かすことの出来ない必需品。これらを産出する東南アジア諸国は、彼らにとって何としてでも喉から手が出るほど欲しい垂涎の地であったのです。
フランスは当初カンボジアとラオスから中国雲南地方に入るルートを交易路にしようと開拓を試みたのですが、地図を見ても判るとおり大メコン河が行く手を阻み、またベトナム国境にあり南北に連なるチョンソン(長山)山脈の深い熱帯ジャングルに遮られ、悪戦苦闘のすえ踏破できず断念。そこに目を付けたのが、トンキン湾から紅河デルタを遡り中国南東部に達するルートでした。
18世紀の末にカソリック宣教師であり貿易商人でもある、フランス人司教のピニョー・ドゥベールはベトナム語に堪能で、ホイアンにカソリック教会を先站として建てます。彼はルイ16世からグエン朝のベトナム統一を支援する旨の約束をとり、勝手にも見返りとしてツーラン(現ダナン)、コンダオ島の割譲に通商と布教の特権を得ました。しかし国王からの援軍や武器弾薬は届かず、彼は義勇軍を組織して戦い、この結果ハノイのチン氏を擁立しているオランダが排斥されインドシナがフランス植民地の基盤となっていくことになります。
ベトナムは19世紀初頭、フエのグエン・フック・アインがグエン朝を興し、後にザー・ロン帝(嘉隆)と称して絢爛たるフエ王朝時代に入ります。
またこの時期になってから、インド洋から南シナ海にかけての貿易は飛躍的に発展することになり、太平天国の乱で清朝中国のベトナムへの影響力が弱まったことと合わせ、運よくフランスにとっては大きな追い風になってくるのです。
この19世紀はヨーロッパ各国で資本主義が発展。とりわけイギリスはアジアへ進出して植民地経営で大きな富を得ることになりますが、これにフランスは大きな刺激を受け、資本家は海外の投資先を求めて彷徨。またナポレオン3世は積極的に海外進出と領土獲得を企てますが、特にインドシナが産する原材料は彼らにとって至宝であったと言えます。このナポレオン3世は1世と違って余りハンサムではなかったとの余談がありますが、女性に優しく数々の危機をそのために救われたと言う逸話があります。しかし国内で資本主義化の急進と、衰退する農業を見るにつけて、一挙に暴利を得るため海外進出を目論みます。
この3世の時代、フエ王朝から1856年逮捕と死刑判決を受けたフランス人宣教師釈放要求から因を発するダナン攻撃。さらに58年にはサイゴン攻撃が始まり、フランスの本格的なベトナムへの植民地侵略が露骨に加速しますが、これ等の一連の事件はフランスが思惑通りに進めたのです。
この時期に世界的な米不足が起き、また仏人レセップスのスエズ運河開鑿成功により、いやがうえでもインドシナ穀倉地帯の価値は更に上がる事となります。米生産量は19世紀の30年間で実に5倍になり、その価格は3倍に跳ね上がったといいます。また他の東南アジア諸国の植民地では、田を潰してゴム、茶、コーヒー、綿花、砂糖キビ、タバコ等の農産物に転換されるようになりますが、逆にメコンデルタの肥沃な大地で大増産された米が輸出されることになって、フランスは時の莫大な利益を得ることになります。
この輸送を担うため、サイゴンからメコンへ鉄道を敷設しますが、地元住民の為ではなく、あくまでも収奪した農作物をサイゴン港に送り、船便で母国に運ぶための物流インフラ整備でした。10数年前まではさび付いた線路が僅かに残っていて、往時の繁盛ぶりが偲ばれたものです。最近になってHCM市から農水産物の発展が見込めるメコン地域へ、鉄道を復活する案が再燃しています。
フランスは1863年にはカンボジアを、1893年にはラオス(旧ルアンプラバン王国)を保護国とします。更に1884年~85年に清仏戦争に勝利し、清朝のベトナムにおける宗主権を放棄させ、これで一挙安南(現在のベトナム北部・中部)を手中に収め、コーチシナと呼んだサイゴン周辺部とメコン地域、南部の直轄植民地を併せた広大な版図は、仏領インドシナ連邦という名前で呼ばれることとなり、近代武力と戦法に勝る軍隊を持つフランスは、次第に圧政を拡大して行く事になります。
株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生