日本へ渡る留学生が増えてきた頃、ベトナム国内でも変化が起きていました。
ファン・チュー・チンが提唱、中部で学校や商会(資金を出し合い商いをする)を組織する動きです。
植民地下の学校は新学と呼ばれ、髪を切って服装を改め当局が漢字を廃止して宣教師に作らせた文字チュー・ノムで国語を教え、算数や科学、地理歴史など、それまでの儒教に基づく四書五経から強制して変更したのです。
チンはフエの南方クアンナム省の出身、1872年生まれでチャウより5才下。幼い頃から儒学を学びますが13歳で両親と死別します。母親は名門一族の出。父親は王朝軍の高官で、フランス軍の攻撃でフエが落城した後、知識人が立ち上がった反仏抵抗闘争に参加して殺害されました。
1900年郷試に合格、翌年には会試にも合格するほど天賦の才を得た聡明な人物。この後フエ王宮で官吏の職に任じますが、正義感が強く腐りきった官僚体制や佞吏の姿をみて失望し辞職。しかしこの間に多くの書物を読み民族独立に啓発されていました。この同時期、国子監に居たチャウとは奇しくも面識があり、彼の書いた文章も読み、また共に意見を闘わせたことがある論客です。
官吏を辞めたチンは友人3名と国内旅行に出かけます。この2名も科挙の廷試に合格した人物ですが、共に科挙制度と官僚機構に批判的で、末は博士か大臣かを約束された立場を振り官吏になりませんでした。
旅の途中でカムラン湾に停泊中のロシア・バルチック艦隊を見た彼らは、その威容に圧倒されます。しかし後に世界に誇った無敵艦隊がツシマで日本に破れたことを知り日本に関心を抱きます。
彼なりに独立運動を始めたチンは、近代国家建設と社会制度を構築しつつある日本を参考にするため訪日します。33歳になった1906年春のこと。
多くの場所や学校を見学、また必要な書物などを購入しますが、一部始終を理解し、長期滞在せず2ヶ月で帰国します。
・チャウとはすべてに明確に路線が異なる
チンはチャウの急進的な武装革命論は、余りにも無謀で浅慮だとクールに分析。チャウは自らの経験から、独立には相応の武力で闘争する事が必要だと考え、初めから軍事革命路線を歩んだものの、資金、人材、装備など何ひとつ持たず独力では不可能なため、初めから他国の支援に頼ろうとしました。
チンは国の将来を思えばフランスとの対決は得策ではなく結果は敗北しかない。ヨーロッパの近代的科学技術を取り入れた新しい学習法に基づき、まず国民への教育を重視するべきだと考えていました。欧州列強に支配されている中国でさえ、ヨーロッパの近代文化を取り入れて新しい国作りをしようとしている。腐敗した官僚主義の打倒と国民へ新教育の構築こそ先決だとの考えが、日本で明確になったのです。
教育が必要だという点では二人の考えが一致するものの、チャウは梁や犬養などからの教示でようやく気がついた点。チンは自らの官吏の経験と思考による自主独立路線であった点で大きな相違があるといえます。
人材の教育育成方針は時間がかかっても、チンは国内で当局が認める範囲で徐々に改革を進める融和策が正しいとの主張。チャウは若者を日本へ留学させ、徳と礼儀ある国民性と、歴史ある伝統文化を引き継ぎながら近代改革を進める政治手法を見習うべきと主張しました。
チンはまた独立の暁には立憲君主制を維持する事に反対する立場をとりました。フエ王朝と官僚の堕落と腐敗を見て、王政を廃止し共和制とすることを考え。これに対してチャウはあくまでもフエ王朝を基盤にした立憲君主制護持、即ちクォン・デが皇帝の座に付くことが前提です。
このように二人の思想と主義主張には隔たりが大きく、民族独立運動へ別々の道を歩むのです。
・果たせなかった夢 だが姪に意思は引き継がれ独立を勝ち取る結末に
穏健派チンも暴動の首謀者の一人として逮捕、死刑判決を受けますが、総督府の命令で減刑されプロコンドール島に流されます。当局はチャウと思想的相違の詳細を調査。本人もチャウとの考え方の根本的違いを主張。チンはフランス人の支援もあって流刑から3年後には恩赦を受けて釈放。
チンは1911年に総督と共に渡仏。祖国解放のためにフランスのインドシナ政策を変えるよう政治家に会い運動を続けます。
カイデン帝がパリで開催された万国博覧会に出席するため来仏した機会に宮廷の批判と、真っ向から対立を宣言する強烈な手紙を送ります。これは現地新聞に仏越語で一斉に大きく報道され大きな反響を得ました。
フランスへ渡った後、ホー・チ・ミンとも一緒に活動したこともありますが、チャウが逮捕された1925年に帰国。サイゴンで講演活動を始めます。
チンは帰国してからチャウが逮捕されフエに軟禁されていることを知り、会いたいと願いましたが、この時すでに彼は病を得ていて叶うこと無く翌年逝去。
チャウ軟禁に続きベトナム人民はこの訃報に接し、追悼の意を表するため学生はストライキ、一般民衆と追悼デモしたとあります。
奇しくも同時代に生き、思想主義主張は違っても祖国独立に燃え、自らの生命を懸け戦った民族運動指導者は、相次ぎ波乱の歴史的活動の終焉を迎えました。
株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生