ヴォ―・グエン・ザップとニクソン

2020年4月24日(金)

・戦争強硬派ニクソンの危険な正体が現れたディエン・ビエン・フー

アメリカはフランスの要請で軍事介入を検討。ダレス国務長官は同盟国と協議し共同派兵を提案しますが同調する国はなく、議会も支持をせず断念せざるを得ませんでした。この時点では一片の良心は残っていた様です。
無慈悲にも原爆使用をアイゼンハワー大統領に求めたのは、当時副大統領だったニクソン。しかし安易過ぎると却下。中国の軍事顧問団も混じっていたのが避けた理由であろうと考えられます。ニクソンは開戦前に要塞の視察を行なっており状況は把握していた筈。

1954年5月7日、一期と二期に分かれた56日間の激戦。カストリはついに白旗を揚げあっけなく要塞は陥落。ベトナム側は多くの犠牲を払いながらも仏軍戦闘機62機を撃墜する等、完全勝利します。
フランスは自国の兵力だけでなく、どの戦いでも植民地兵を投入しています。戦死者の比率から見ても8割がこの兵で、敗戦の要因はこの強制的に派兵された植民地兵士の戦闘意欲の欠如も原因。ベトナム戦争でも同じような処遇が行われました。
民族の真の独立を掲げたベトミンは、どんな犠牲を払っても最終決戦に勝利すべく士気と気概が違っていた。それを読めなかったフランスの傲りに敗因があります。
この戦いで犠牲になったのはベトナム側8000人、負傷者15000人。
フランス側は死者2200人、10000人以上が捕虜になりました。

ニクソンはくしくも後にベトナム戦争の幕引きの役目を負います。
強攻策を論じ無差別攻撃を主張する強行派、カーチス・ルメイを副大統領候補に任命するくらいのタカ派。だが一方で「名誉ある撤退」をする秘策を持っていると公約。負け戦に嫌気をさした国民の支持を得て当選します。
ニクソンは大統領就任2ヶ月後、12月18日にベトナム戦史上最大の北爆を敢行。だが勝目の無い戦争に終止符を打つべく、ヘンリー・キッシンジャーをハノイに派遣。身の変わり素早く狡猾にも和平交渉に臨みます。
その結果1973年1月27日「パリ協定」に調印。早くも3月29日に米軍は完全撤収、身勝手にも戦争終結(負け戦でなく)を宣言します。
パリ協定に臨んだのは、小柄なグエン・ティ・ビン女史で外務大臣として出席。「アオザイの闘士」と呼ばれ一歩も引かない強い姿勢にアメリカはタジタジ。

ニクソンはキッシンジャーと、後にベトナム戦争を終結したという功績?で、ノーベル平和賞を受けますが、元弁護士レ・ドク・トは見事に拒否。
ニクソンは戦争継続の強硬派、過激にも原爆使用を提言。下手をすれば広島・長崎に次いでベトナムは3番目の犠牲になる可能性もあった。だが戦費負担で財政は破綻寸前、戦争批判が潮流となれば権力は保持できないと察知し、突如変身した似非平和主義者。悪魔の手先が受賞など、選考委員は何とお粗末。

・ヴォ―・グエン・ザップ将軍の来歴と人柄

ザップ将軍はクアンビン省の出身。フエのクオック・ホック(国学)高校からハノイ大学法学部に進み、歴史学教授に就任。在学中から抗仏運動を指揮した筋金入りの独立主義者。だが大学を除籍され服役を繰り返します。
ホー・チ・ミンの片腕とも言われ、フランスから「赤いナポレオン」と呼ばれて恐れられます。彼の妻や親族はフランスに投獄され殺害されているのです。
1930年のインドシナ共産党創立に参加するが、40年に一旦中国へ亡命。
41年帰国しベトミン結成に参加、44年に抗日行動を指揮。
45年ベトナム民主共和国樹立時に国内相、46年~86年国防相を勤める。
ベトナム戦争時は人民解放軍総司令官。
70年南ベトナムの武力解放には消極的であったと批判され。またカンボジア侵攻にも反対した理性と知性と教養を持った人です。
1991年引退。以後政治に一切関らず。高潔な人柄は国民の信頼と尊敬を集めていました。
2013年10月に死去。彼の遺言で故郷に埋葬されますが、全てのテレビは国葬を完全生中継。ハノイから中部クアンビン省クアンチャク県トゥソン村まで全工程と埋葬式まで放映。私はこれを視ていました。

元ニャンザン副編集長で共産党を除名されフランスへ移ったタイン・ティンは、著書「ベトナム革命の内幕」で革命の内実を暴露。多くの政治家や党員を批判していますが、ザップ将軍に付いてサイゴンを解放した後、多くの将兵が戦利品を略奪するのに対し、一切懐に入れることはなかったと記載。部下は等しく学識豊かで、努力を厭わず、簡素で清廉な生き方を模範としていたと書いています。実際に何度も会ってその人格と品格を確かめているので紛れのない事実。政治局員を解任され、これに対し彼を知る内部の人物や一般市民までおかしいと認識しています。
ホー・チ・ミンの片腕ファム・バン・ドンも首相として重責を担ったが、政治局員としては寡黙な人で正直。ザップ将軍と同僚であり、公正で清潔な生き方をしたのに修正主義者のレッテルを貼られ、体制から利用され、結局は除けられます。

何れの世界でも真っ当な人は批判され排除される宿命。日本でも関東軍と対立、侵攻拡大を否定した中野莞爾の様に、怜悧で秀逸な意見は無視されます。世界大戦回避への芽が摘まれた可能性もある。
拡大派は領土拡大で民衆を扇動し、作為と虚偽で判断を誤ませる。もはや欲の暴走に歯止めが効かなくなるのは歴史の証明する所です。(完)

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生