日露戦争 日本海海戦での日本勝利がベトナムに与えた影響

2020年5月14日(木)

1905年5月28日は大日本帝国海軍がロシア・バルチック艦隊(正式名称は第二太平洋艦隊)を対馬沖で迎え撃ち、劇的な勝利を収めた日です。
この戦闘に関して様々な見解があり、日本が奇跡的に勝利したとの考えが一般的で、秋山兄弟の戦略・戦術が勝利に導いたとの説も多く支持されています。
しかし大国に立ち向かって勝利したとの感情や発揚論より、論理的に時系列でみれば、充分な準備があってこそであり、様々な要因が重なったうえでの順当な勝利であったとするのが正解の様です。何れの歴史も同じだが、多分に時の為政者の都合に依拠する部分もあると観て然るべきです。 因みにロシア側からも見たツシマという題名の本が日本語訳でも出版(絶版)されています。
この時の旗艦三笠は横須賀港に記念艦として今も係留され、見学ができます。
日本の勝利が世界、当時列強に苦しめられた国々の人々へ、大きな影響と勇気を与えました。憎き宿敵帝政ロシアが負けたことで歓喜したのはポーランド。有名な話は、シベリアからロシア兵捕虜として松山収用所に保護された多くはポーランド人で、領土を割譲され亡国の兵士として徴用された人達。ロシアの敗戦を知り狂喜乱舞した程。事情を知る当時の軍部はロシア兵と分離、かなり自由な処遇であった事、人も親切丁寧に接遇したなどで、インテリジェンスは日本がとれなかった欧米の重要機密情報を伝えるほど友好的。優秀な外交官が居ながら本国で無視され無駄になりましたが、今も大の親日国となっています。
またベトナム人民に及ぼした影響はすさまじいもの。フランスの植民地として隷属され、収奪と蹂躙を100年間に亘って成すがままにされていましたが、同じアジアの小国である日本が強大な国ロシアに勝った!と大喜び。自分たちも頑張れば、宗主国フランスに勝てる、との意識が芽生えたのは当然で、ある意味これが契機となり独立への歩みに拍車がかかってゆきます。
このなかの一人が、前年1904年に独立を目的とした維新会の始まりとなる革命組織を設立。1908年から19年にかけて、前途有望なベトナム青年が日本に留学させる東遊運動を指導したファン・ボイ・チャウです。
バルチック艦隊はベトナムのカムラン湾に寄港しています。
此処は要衝の地で、第二次大戦時には日本軍も艦船を停泊させ米軍への攻撃に出動しています。ベトナム戦争終結後には旧ソ連が空軍基地として長く使っていたほど。今でも各国の軍艦が寄港しています。
バルチック艦隊は、1904年10月にリバウ軍港を出航してから丸7か月。この港がウラジオストックまでの最終寄港地。燃料・食糧の補給とへとへとの乗組員の休養が目的でした。この時日本は英国と同盟国。英国はロシア艦隊をつけ回して監視。日本へは彼らの行動が随時通牒されていたのです。
このためロシアは国際法上カムランに24時間以内でしか停泊できず、公海との往復を何度も余儀なくされ、充分な休養はおろか、栄養のある食料や新鮮な野菜なども摂れませんでしたから、疲労は極限に達していた筈です。
地元民はこの機に乗じてせっせと稼ぎ、ある者は小舟を操り出して物を売りに来たとの史話があります。カムランはベトナム戦争後にロシア軍が空軍基地として長く使っていました。歴史は巡るで、奇縁結縁です。
日本がツシマ海戦で勝利したのは、この時に積み込んだ石炭が粗悪品だからという都市伝説があるくらいです。しかし、当時の内燃機関は石炭が燃料のためメンテナンスを2か月に一度しなければならない位、効率が悪かったのです。また最終地まで燃料切れがあってはならないため、タダでさえ船足が遅い戦艦に積み込みすぎた結果、艦隊として航行するには一番遅い船の速度に合わせる必要がある。従って15ノット位でしかも小回りが利かなかったのも、ロシア敗因の一端があります。
この時、停泊中の艦船を近くまで見学に行き、実際目の当たりにしあまりにも巨大で真黒な鉄の塊(船体)に吃驚したのが、ファン・チュー・チン。
フエの宮廷官吏であったのですが腐敗と堕落に嫌気を差して辞職。全国各地を友人と回っていた時、偶然入港していた軍艦を観ることになりました。
彼に付いては後の項に改めますが、チャウと同様に独立における重要な人物。世界の無敵艦隊を誇ったロシアの強力部隊がツシマ海戦で日本艦隊に破れた事を知って小国日本にいたく関心を向けます。
論客ファン・チュー・チンは、チャウとは独立に関する考え方、方法に隔たりが大き過ぎ、殆ど表舞台に名前が出てきませんが、時を同じくして、同じフエで学び、共に国家の将来を憂慮したもの同士。しかし奇しくも民族独立運動へは別々の道を歩む事になります。ベトナム近代民族独立史上、決して忘れてはいけない人物の一人であると考えます。
因みに、元南ベトナム解放戦線スポークスマンで、南ベトナム共和国臨時革命政府の外務大臣として1973年1月のパリ和平交渉で「アオザイの闘士」と呼ばれ、小柄な体でアメリカに怯むことなく一歩も譲らない主張を貫いて驚嘆させたグエン・ティ・ビン女史は、このファン・チュー・チンの孫娘にあたり、後にベトナム社会主義共和国副大統領になっており、宿縁は続くものです。
この独立運動に身を投じたチャウやチンなどの人々。また当時の日本との関りについて、次回から暫くの間まとめて行きます。
ない、皆さまご存知と思いますが、ベトナムでは人を呼ぶとき、最後の名前、あるいはニックネームで呼びます。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生