ベトナムは複合民族国家で54の多民族で構成されていますが、このうち9割を占めるのがキン族(京族=ベト族)。彼らは全国の主に都会や平野部に住んでいて、キン族だけしかいない省や直轄市は8地域のみとなっています。
反対に他の53民族のうち中部チャム族と南部のクメール族以外は高地に住んでおり、その数が数百、数千と殆ど絶滅に近い少数民族もあります。
またキン族が極めて少なく他の民族が多い所は、北部の中国国境に接する場所。中部の高地・山岳地域では4%~18%。またラオス国境に接する高原地帯には34もの多民族が住み、民族の博物館といわれるダクラク省があります。
・国境とは
国境は人為的なもので単に国家間の勢力で決っただけ。元々国の概念が無く人が少ない時代は、ジャングルに阻まれ、急峻な山岳や大河というあがなえない自然が物理的に人間を拒んでおり、敢えて境界を定める必要は無く、生きるために必要なアバウトな生活圏(彼らなりの宇宙観)で充分でした。
現在隣接国にも同じ民族が住んでいますが、ただ国籍が違うだけで古来祖先から受け継いできた縄張りと独自の文化や風俗習慣、言語。生活様式である食事や服装などはほぼ変わっていませんし、彼らが国境を無視して部族間を自由に往来するのは当然のことです。
インドシナ半島では繰り返し領土が侵略され国境は変遷しています。だが海に囲まれた日本では国境という概念は乏しいのは当然。一度は陸路で国境越えをしてみれば分る。ベトナムHCM市からカンボジアのプノンペンへは国際バスが運行しているので、これを使えばいい。風景や風土が次第に変化、国境通過を体験すれば地続きの緊張感が肌身に感じられます。
・言語で分類される民族
ベトナムの民族は幾つかの語族に分かれており、未だにベトナム語が話せない極めて少数の高地民族もいて、現地TVドラマにはそんなシーンが出てきます。
今回はその代表的な民族のあらましを紹介します。坪井善明著 岩波新書版 「ヴェトナム 『豊かさ』 への夜明け」では次の様に分類されています。
(オーストロ・アジア語族)
「ベト・ムオン語系」キン族が一番多い。
「モン・クメール語系」クメール族。『タイ語系』タイ族、ターイ族、ラオ族。「メオ・ザオ語系」モン族、ザオ族他37族。
(オーストロネシア語族)
「マラヨ・ポリネシア語族」ザライ族、エデ族、チャム族。他2族。
(シナ・チベット語族)
「シナ語系」華族。
(チベット・ビルマ語族)ハニ族。他5族。
ベトナムの民族は他民族からの侵略に対する攻防と抵抗の歴史を持っています。
今のベトナムが形成されるのは僅かこの200年ほどでしかなく、北のキン族は10世紀になって中国の潮州から徐々に米の耕作適地を求めて「南進」を始め、15世紀にレ・ロイが明を打ち破ってから本格的になりました。ホイアンや最南端の街でさえ、潮州会館という名の集会所があるのはその名残です。
南進は人口が増えたことが一因で食料調達の必要があったこと、北方中国からの脅威はなお続き、明国へ朝貢しなければならないためです。
地形的には西側はチョンソン山脈に遮られているため、細長い地形では物理的に土地を求めて南下して領土拡大をせざるを得ませんでした。
大阪大学教授の桃木至朗博士は、バック・ダン(白藤)の戦いで中国を破って独立を果たした知恵と戦略に優れたゴ・クエンが、939年に王として首都をコロアに置いた年から「南進」が開始するとして、キン族の勢力範囲の推移を1069年にはクァンビン省辺りまで。1307年にフエ、ダナン辺りまで。1473年にフーイェン省。1611年~1679年にカィンホア省~ビントゥアン省。1698年~1759年にメコンデルタのソクチャン省、アンザン省に及び、1780年には最南端のカマウ・ハティン両省を治めて、ようやくベトナム全域を統治したとの説を述べられています。
*バク・ダンの戦いはベトナムでは有名。今なお入り江に戦争の跡(木杭)が残っていて、干潮になると木造船は船底を破られて難破する仕掛けです。
HCM市の歴史博物館ではその状況を描いた一連の絵画を見る事ができます。
このため将軍が戦死し、他に多くの死傷者が出したのだが、レ・ロイは丁寧に処遇し送り返したと伝記にあります。
・幾つかの民族に関して
キン族
キン族は中国西南方面から米の文化とともに南下して来て、現在の紅河デルタ平野部に定住したと言われ、伝説から「百越」=多民族、の祖先だとされます。
その後フン・ヴーン王がベトナムを建国、自給自足の生活を行なってきました。彼らはホン河とタイビン河の間にある砂州の耕作地で、雨が多く高湿度の自然条件を利用して米作りと野菜栽培、魚貝を獲って暮らしましたが、技術は高く灌漑設備や堤防もありました。家畜や家禽と共生した農村生活では水田で水牛を使っていますが、この米耕作がキン族の文化や習慣を作ってきたのです。
祖先崇拝、土地、太陽、雨や雷の神様を祭る風習は、稲作には欠かせない先人の知恵と、自然に対する農耕民族の畏敬の念の表れで豊穣への祈りなのです。
水上人形劇の起こりはこの地域で、これはその年の豊作の喜びと、絶えず農民を護ってきた神へ感謝を捧げる村邑のマツリで、子々孫々伝わって行きました。
(次号へ)
株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生