ベトナムの英雄列伝 ~近世民族独立闘争烈士譚②~

2021年6月10日(木)

4代嗣徳帝は聡明な帝で外国勢力へは強硬策をとって、グエン・チ・フォンファン・タイ・ジャンをして外国との対峙に備えをさせていました。
二人の重臣は明命帝が最も信頼した有能な人物。フォンは外務大臣として仕え、ジャンは高潔で実直な性格。更に世話になった人へは恩義を忘れない人徳が妬まれ罠に嵌められるが、司法大臣として復権を果たす。南部で唯一人科挙に合格した哲学博士、人格と有能さを感じ入った明命帝が直接質問するほどに逸材と云われています。

ダナン攻撃の際には海軍総司令官としてフォンが徹底抗戦。その後北部鎮圧と軍事を担います。フランスは紅河を利用し雲南へ至る水路を何としても手に入れたく無体な要求をするがフォンは断固拒絶。これに対しフランスは圧倒する軍事力で瞬く間にハノイを攻撃。フォンは重傷を負い城内でフランス軍に拘束されるが頑なに治療を拒否、食事なども投げつけ名誉の死を選びます。
一方ジャンはいたずらに武力だけの抵抗は無意味だと判っていたものの、各地で民衆の憤懣から反乱が相次ぐ中、時の運悪しくコーチシナ西部三省の副王に任じられます。このような時にフランスは屁理屈をつけ、軍事力でコーチシナ全域を一気に占領。一方的に植民地宣言を行ないました。
彼はメコン流域の集積地ヴィンロンに停泊するフランス艦船に出向き、抗議と交渉を始めようとしたが、にべもなく拒否されたため責任を感じて一切の食事を止め最後に服毒して自死を遂げます。事前に官服を帝に返納し、後に残されたものは小さな小屋と数冊の書物しかなかったとされる清貧さ。
清廉潔白で武士の様な男義と気骨を持った二名の能吏でした、

嗣徳帝の没後、宮廷内では後継者を巡る混乱が続き、ようやく幼帝咸宜が即位。
この時出現したのが初期の反仏運動指導者として名高いファン・ディン・フン
優秀な人材を多く輩出した名家が出自、科挙に合格した進士で哲学博士。世継問題で異議を唱えたため監獄に入れられたものの、罪を取り消されてハティン省の行政長官に登用されます。
咸宜帝が宮廷内での対仏クーデターに失敗。王宮を脱出して近くのクァンビンに来たとき、彼は咸宜帝(ハムギ)に会いに行きます。この時かつて嗣徳帝の兵部大臣であった反仏強硬派グエン・ティエン・トアットは、フンが人格者であり明晰で判断力の優れた人物だと見抜き咸宜軍の総司令官に任命します。
フエ王朝では唯一「通り」に名を残すのがこのハムギ帝のみ。

フンはヴィンの山中に拠点を置き中北部4省でゲリラ活動を展開。祖国を解放しようという彼の呼びかけに多くの人が参加、抗仏闘争は一挙に拡大します。ハティン出身のカオ・タンは優能な軍事指導者で、フンに協力し住民から資金を得てタイで武器弾薬を調達。また軍事拠点を15箇所建設し各5百人の兵力を配置、武装勢力組織を構築して巧妙なゲリラ戦を展開するなどフランス軍を攻撃して悩ませました。
勢いに乗じてタンは一挙に作戦を展開しようとしたが無謀だとフンに反対され、
一千人の兵力でヴィンを攻撃するが失敗。重傷を負いながらも彼は本拠地に戻ったが死去。このため中北部での抵抗運動は次第に勢力を失って消滅。
意気揚々のフランス軍は徹底した掃討作戦を展開、軍略と圧倒的な近代兵器に勝りゲリラ拠点を徐々に攻撃して優位に立ちます。
だが熱帯の山中での戦は簡単でなくゲリラ戦法も相手が上手。次々にフランス軍兵士に狙い撃ちされ、疲労と熱病などで倒れてゆく。
一方で徐々に追い詰められ奥地に入ったフン部隊は150人まで減少。食料に弾薬も底を尽き飢餓が襲ってとうとうフン自身が赤痢に罹ります。フンは死の間際に側近達を集め「我々は祖国のため強い意志で挫けることなく10年間戦ってきたが無駄死にではない。祖国に殉じる正しい目的は後世に伝えられるだろう」と、志半ばにして深いジャングルの中、僅か49歳で果てますが、彼の不屈の闘志は民衆の心に強く残り抵抗運動の原動力となります。
広州でフンの息子ゴックと称し、ファン・ボイ・チャウを騙したのが本物なのか定かでありません。確かに家族は下野して農業に就き、息子の一人は日本へ留学したとも伝えられている。

南部での抗仏運動が激しくなり、フランスが武力制圧でコーチシナを植民地にしたことがフエ王朝に忠誠心を持っている知識人を激怒させます。
ファン・タイ・ジャンが副王としてフランスとの交渉に入る中、嗣徳帝は密かに南部の反仏勢力に直接関りを持ち支援をおこなっていたのです。
チュォン・コン・ディンは軍事に卓越した司令官として南部に来ました。兵力に劣ることを知っていたディンはゲリラ戦を展開、フランス軍に大きな損失を与えたものの戦闘中に負傷。爾後メコンデルタ(現在ティエンザン省)ゴー・コンに入り志願兵を組織して武器を調達します。
彼の能力と犠牲的精神を見た民衆は抗仏を支持。ディンは民兵をまとめて訓練と物資補給と情報網の整備のために組織を作り、外国の支配を排除し国を守るため「自衛軍」を創設。ディンは嗣徳帝に「どの様な事態になっても降伏は死と同じことで絶対にしない。敵が私を殺すまで戦い続ける」と和平交渉拒否を宣言しゲリラ闘争を続けフランス軍を翻弄します。
彼を政府高官や中国商人などが援助。武器弾薬をタイ等から調達しサイゴンを中心拠点にして反仏活動を続けますがフランスは其処を発見して攻撃。司令部は壊滅。フランス当局はディンに降伏を促し「望みどおりの役職を与える」と懐柔策を提示するも「話し合いはベトナムに領土と主権を返してから、それまで徹底的に戦う覚悟」と拒否します。
だが此処にも裏切り者。ディンに資金をごまかした事で叱責を受け、フランスに投降したタンという元幹部がディンの行き先を当局に通牒。フランス軍は隠れ家を急襲し、弾丸が命中したディンは即死。44歳の生涯でした。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生