「トカラ列島」 想い出の風景・宝島

2021年8月31日(火)

地震情報で見かけることが多いこの名前。殆どの人は何の縁も馴染もないし、カタカナ表記のため何処の国?と勘違いする可能性がないとは言い切れません。
ニュースで流れたのはこの島嶼の一つである悪石島の震度とマグニチュード。だが7年前もこの島で地震が頻発しています。
この悪石島沖は民間人を乗せた疎開船、対馬丸が米軍の国際法違反で撃沈され沈んでいる事でも知られている。
♪300キロの 海につながる島々よ~と村歌にもある様に、鹿児島県に属するが、鹿児島港から奄美大島・名瀬港まで点在する人の住む7島、人が居なくなったとか元々無人だった5島で構成されている小さいけれど広い村です。
吐噶喇と漢字で書くが読めないなどで何時しかカタカナになってしまいました。付近は水深が1000M以上もある群青の海。霧島火山帯なので温泉が湧く島もあって高度成長期にはヒッピーが移住したとか、無人であるはずの横当島には宇宙人の基地があるなど怪しくも嘘っぽい話もありました。
かつては歴史上遣唐使や日宋貿易の航路の目印であったし、いまでもベトナム空路になっているようで上空からは島影が認められます。
南方から南西諸島伝いに米耕作文化が日本に渡ってきた研究もされているが、縄文後期から弥生前期に人が住んだ痕跡とか、使った土器が宝島で出土したとあります。
各島には平田など「平」の一文字を使った姓が多くあり、伝説では平家の落人。壇ノ浦の戦いに敗れ島伝いに定住。江戸時代は薩摩藩の役人が常駐し70戸・400人が住んでいました。この辺り白石一郎さんの小説、宝島などに詳しい。どおりで言葉は訛らず綺麗だった記憶があります。
また明治時代に疫病が流行り、伝染を避けるため高齢の感染者は小舟で洋上に出て赤い紐を指に結わえ海中に身を投じた悲しい伝説がある。この時分に列島の詳しい案内記「七島問答」が発刊され、今も利用されています。

この島の名前に興味を覚え、屋久島での集中合宿の後に民族学的調査を目的に4人で渡ったのが昭和43年。島には呪術師の老女が一人で住いし、唯一祈祷などの文化を伝承していたのです。
鹿児島からの船便に間に合わず、名瀬まで行き船待ち。しかし一日遅れの入港予定というので名瀬市役所に行くと、ご親切にも宿直室に泊めて頂けたのです。
また保健所で渡島の話をするとハブの血清を渡し、万一嚙まれたらこれを打てと伝授。今と違い情報は簡単に取れず、余程でないと行く理由がない島なので皆さんには心から丁重に接して戴き感謝、誠に良き時代でした。
手元に一枚の古い名刺があります。真っ白だったのに53年の時を経て少し黄ばんでいる。大島郡十島村宝島と住所が記載、電話は呼出し。頂いたのはこの宝島小中学校の校長であったTさん。名前が祖父と同じであったこともあるが、親切に学校を案内して頂き、夜には自宅でこの地の魚をご馳走になりました。なぜか帰りがけ、夏休みに遊びに来ていたという熊本の女子大に行っていた姪子に、夜道は真っ暗だからと先生の配慮で送られたのだが、あれは何だった?
宇夫だった私は惜しいことをしたようです。
この当時は港がなく就航していた連絡船「第二 十島丸」には艀で乗り移るが、離岸の際は永遠の別れのような悲しく切ない気持になり、時を経て先生ご家族と姪子、島民の多くが見送りに来てくれた光景はいつまでも脳裏に残ります。
これという産業は無く、成牛を出荷するためウインチで引き上げて船に載せ、本土に持ってゆくとか、今はヘリポートも出来た様だが、診療所が無く急患などが出れば少々の嵐でもこの連絡船は救援に駆け付ける勇敢で涙ぐましい活躍をしました。鹿児島・山川港まで一昼夜。生活物資の運搬なども担うため島での停泊時間は長かったが、船中の食事は申し分なく、船に飛び込んできたトビウオの焼き魚と澄まし汁はシンプルだが本当に旨かった。
今の様に民宿など宿泊施設はないため、人が居なくなった民家を村の世話人に頼んで借りるのだが(無料だった)、水道はなく、カワと呼ばれる水汲み場まで行かなければならない。電気は発電機を回し夜にTVを観るため3時間のみ。購買所は島に一カ所だが、これといったものは無く、殆どの人は連絡船の入港に併せて本土から送ってもらう。車は一台のみでナンバーは無かった。世話になったコーチンさん、東京からUターンした人が笑って話をしていました。
この方は何かの拍子で知り合い、滞在中は海浜で採り立てのイセエビ、自家造りの焼酎などをたっぷり頂き世間話をしたもの。
パーティの中に元特攻隊のパイロットだった方が居て、20数年振りだとかで奥様を同道。ゼロ戦は故障して墜落したが何とか島に辿り着いて生き延びたと言い、この島は恩人だという兵庫県の方。まだ戦争の記憶が残っていた時代に人生の重い物語、想いを抱いてお越しになったのです。
島内は全て地道で回遊できない。女神山の麓には日本の在来種トカラ馬が放牧され、透明のブルー・リーフでは思い切り泳ぎ、家の庭にはバナナが実る。
キャプテンクックが財宝を隠したということでこの宝島という名が使われたが、洞窟はそれほど長くはなくてU字型。入口の観音堂まで戻るが、土木科の者が一人いて測量しながら狭い洞内を探索するも今さら出てくる筈はなかった。
江戸時代にはこれを探しにイギリス船がきて肉を食べるために牛を強奪。このため役人が英国人乗組員1名を射殺した事件があって、このため岸からの道をイギリス坂と呼んでいるのです。
こんな長閑な光景だが、高校からは島を離れて本土へ行かなければならない。
現金収入は余りなく、このため島を離れて大阪などへ出稼ぎに行く断面があり、家族を呼びそのまま定住。離島ブームとは完全にかけ離れている厳しい現実がありました。
しかし今では魅力を感じた若者が都会から移住し、新しい文化や産業が生まれているようです。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生