鯨に纏わる話題が多い日本
日本人にとって鯨食とは文化であり、鯨の全てが日本の伝統文化を支え、余すところなく利用されている重要な哺乳類。子供時分に船長だった伯父の関係で第二図南丸に乗船。鯨の髭を貰ったことがありますが、プラスチックが一般的でなかったころはこれを使っていました。
しかし捕鯨に対しては一部の国を除く世界各国からカワイソウと批判を浴びています。このため捕鯨連盟から脱退。だが嘘つきの隣国では日本海を遡上する鯨を狙い撃ちで密漁、その数は日本の調査捕鯨時よりもずっと多かったとされています。
日本近海に回遊する鯨を獲りまくったアメリカ。単に油を取るだけで大部分を捨てたのです。ペリーの江戸幕府への開港要求は捕鯨船の食料・水・燃料確保が表の目的。13代大統領フィルモアは清国との貿易を拡大するため日本をその中継地として補給基地に選んだのが真相。1840年に勃発したアヘン戦争でイギリスに負けた清は南京不平等条約の締結を余儀なくされ、これに乗じたアメリカは1844年、自国に有利な望カ(雁垂れに夏)条約を締結し、人と物流増加を目的に東部ニューヨークから西部サンフランシスコまでの大陸横断鉄道を建設中。この労働者に中国人を大量に安い賃金で働かせていたのです。
精々100年の歴史しかない当時のアメリカ、12代テイラーの急逝で大統領に昇進したフィルモアは欧州各国に遅れまいと経済発展を目論んでいたのです。
大統領の命を受けペリーは艦隊を率いてやってきたのです。この裏には同じく捕鯨船に救助されたジョン万次郎と救助した船長の情報がありました。
この捕鯨船に助けられた日本漁民もかなりいた様で、万次郎の他にも鎖国中の日本へ危険を冒して送り届けた勇気ある海の男達がいた実話もあります。
石油の単位バレルとは、この船に積み込んだ木樽の事で人間が扱える最大量、形状もレールに乗せるための工夫でした。
米国内で石油が発見されると捕鯨は必要なくなりましたが、獲り尽くしていたのが真相で陰の大統領ロックフェラーは油で大儲。現在に引き継がれるいつもの米国流身勝手主義と横暴。このため日本は南氷洋まで捕鯨に行かざるを得ませんでした。余す所なく利用する技術と文化を継承する職人の知恵、戴きます精神は古来生命への畏敬と神への素直な感謝の気持、根本的に異なるのです。
平戸島では鯨一頭で村が一年潤う。島民へは平等に分配、無用な乱獲はしませんでした。日本人ならではの勿体ないがこの時代にもありました。
紀州と伊勢の国境で漁民間の有名な鯨争い。これを見事に裁いたのが伊勢奉行であった大岡越前守忠相。八代将軍吉宗が紀州和歌山城に居た時、既に聡明・誠実無比を耳にしていて北町奉行に抜擢です。
昭和中期、鯨は大事な蛋白源。大阪名物ハリハリ鍋に鯨カツ、関東煮(おでん)のコロは安くてうまい庶民の味でした。
この鯨、ベトナムでも海の護り神の使者と崇められ、HCM市の南、カンザーの市場脇に鯨をお祀りしている寺があり、年に一度総出で海に舟を漕ぎだし、神様を迎える祭があります。
鯨はベトナム語でCa Voi。即ち魚の象、一番大きいという意味ですが、食べるという事は聞きません。
ベトナムで庶民が普通に食べる肉料理に山羊鍋(ラウ・イェー)と山羊の乳房(ティット・ヴー)焼肉があります。
少々薬膳的香りの煮込と、炭火で炙る山羊の肉はアッサリ柔らか。鍋は年中食べられ定番。野菜はバナナ、カボチャの花など野趣満載。赤身の牛肉を熱い酢に通す鍋は臭みが取れて柔らかく精がつく。これも残酷で、欧米人は食べないのでしょうかねぇ?
株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生