・日本と切り離せないホイアン。小さな街ながら今年もトリップアドバイザーでは世界一人気がある観光地とされました。
白石一郎、平岩弓枝さんなどが此処を舞台に小説を執筆。かつて権勢を誇ったチャンパの国際自由交易都市の息吹を感じながら、日本と結ぶ交易と生活など往時の情景が浮かんできて、日本と共有する深い歴史の匂いに想いを馳せます。
*コラム42・43に記載。
中心部の古い民家は日本の大学の20年に亘る協力で修復され、恒例になったランタン祭りや、日本祭が毎年開催され賑わいます。
この街はトゥボン河に沿って通りが並行。メインに当たるのがチャンフー通り、グエンタイホック通り、バクダン通りの東西3本に家並みが続き、何軒かの邸や商家は公開され見学出来ます。これらも間口が狭くて奥行きの長いうなぎの町家形式が特徴。
チャンフー通り77番の邸が広くて重厚、最も古い形式を伝えていて存在感がある。建物には様々な国の文化が持ち込まれ、改装を重ねるごとに夫々の建築様式と絶妙に交じり合い趣のある家へと変遷。特色ある名残を留めています。一部の邸宅は宿泊可能なので、古のロマンに触れる滅多にない素的な歴史体験。400年前の交易品や難破船から引き上げた陶磁器等は史実の証人。町家併設の博物館で見ることが出来ます。
中国人町と日本人が住む町の間にある日本橋。ずっしりとした瓦屋根を付け、少々弧を描いた中国スタイルが特徴の橋だが、諍いがあればこの橋の真ん中に出張っている所があり此処で仲裁したとされます。
3代将軍になり御朱印貿易は廃止。鎖国するとの噂がアジア各地の日本人町に流れたため、急遽船を仕立てて多くの在住者が帰国しようとしました。
しかし薩摩沖までやっと戻ったにも拘らず、島津藩は幕府の命に依り銃を向けて上陸を拒絶。無慈悲にも追い払われ失意の底で悔し涙に溢れた話がある。
日本人の墓もこの地に残されていて、久しく土地の所有者が供養されていると聞く。日本の方角に頭を向けていて、故郷や家族への想いを逡巡させつつ異国の地で亡くなった方への鎮魂の念が込められています。
日本人町はチャンフー通りの西端、日本橋を越えた先にあったといわれますが、場所はまだ解明されておらず、辺りを探りに行っても見当が付きませんでした。
ダナンとの中ほど、大理石の山・五行山には寺の建設費を寄進した日本人などの名前を刻んだ碑が残されているほど、日本との関りが深い地域でありました。
当地の名物はカオラウ。伊勢うどんのルーツとも言われているくらいで、寒水が多い目の少々堅く太い麺を少量のタレで味わいます。
・北部 ハノイ 商家の街並み36区と科挙の名残
1000年の古都ハノイ。漢字で書けば河内。市街は米軍の空爆で大きく破壊されましたが、それでも古い街並みが奇跡的に残されています。
市街中心部にあるホアンキエム(還剣)湖。水上人形劇場の北側にその一塊があります。このあたりは元々王朝時代の中心部で古くから商業の要所。道一杯に行きかう人々、天秤棒に荷を積みいそいそと雑踏の中を駆ける回るノンラー(菅笠)を被った女性、バイクの往来で活気に溢れています。
ハノイ36通り。名のとおり幾つもの通りが交叉する処ですが、絵になる昔の商舗筋の佇まいは代々しっかり受け継がれ、古から扱ってきた商品の名が通りの名称にそのまま記されており、今に脈々と息づく街として形成されています。
歴史的には王城の近くに職人集団が集まった一画を意味する「坊=Phuong」が36あり都や地方から技能に優れた人が集められたのが起こり。
貴金属はハン・バック通り、茶はハン・ディウ通り、花柄ゴザのハン・チュウ通り、他には漢方薬に道具屋などが軒を連ね、伝統の職人技の秀逸を嗅ぎ取る。
お茶は蓮花茶が有名。1kgのお茶を作るのに1500本分の花が必要で、早朝陽が昇る前に花を摘みこれを茶に香り付けしますが、7回も繰りかえすと気の遠くなる作業で本物は全て手作業。蓮花茶は鎮静作用があり、また香りを愛でる献上品でした。1kgが3万円前後もするのにも納得。ゴザも北部はイ草が採れるため様々に独特の模様と彩色を施して編み上げます。
評論家の櫻井よし子さんは砂糖街のお生まれだそうで、十数年前HCM市内のホテルでお母様とご一緒でした。後で知ったこと、この時生家を探しに来られ見つかったのは奇跡です。
湖の北東にある墓石屋の並び。生前の顔をそのまま刻み込んでいる職人が住む一角があり、写真を貼り付けたのと見間違うほど芸術的な業物を垣間見る事ができます。陰湿な気配は全くなく技に見惚れてしまう。職人の手仕事や珍しい商品を見ながら歩いて回るだけでほぼ一日かかります。
通り筋の中に100年以上もの時を経て伝承されている町家があります。この町家の特徴は、間口3~5m×奥行き20m、長い箇所では50~60mにも及び、家々はぴったりと隣とくっついて道に沿って並んでおり、京都と同じ様に間口で税金が掛けられた名残。家も同じような構造で、明り採りと風が通り抜けやすい様に中(坪)庭を拵え、此処にかつて各戸に水汲井戸があり植栽を配して外部からの視線を遮る役目を設えました。
ハノイの冬は寒く、夏の季節は高温高湿度。これも京都と良く似た厳しい生活環境。こういう気候条件の下で家造りを考える人間の知恵は、いつの時代でも、何処でも変わらないと感心します。
株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生