上皇、上皇后様が天皇、皇后であられた時の2017年2月、ベトナムを訪問されました。この時お会いになったのが元残留日本兵の妻子であった方々。
しかし面会の後、暫くして亡くなった方がいらっしゃいますが、長年の苦労が一辺に報われた安堵からなのでしょうか。この不憫な事情を理解している日本人は余りいません。一家の長が突然の帰還後に残された家族は(別項に譲る)長い間様々な汚名を浴びせられ、差別と苦難に虐げられたのです。
第二次世界大戦が終わったとき、ベトナムに駐留していた日本軍は武装を解除。しかし日本に還らずそのまま現地に居残った人がいます。このような残留者はアジア全域で1万人もいて、理由は様々でも同じ境遇の下、夫々の任地で独立運動に身を投じました。インドシナ半島では800名の方々が居たと聞きます。
落合茂さんも元残留日本兵。1999年、お噂はかねがね聞いていましたが、日本商工会のサービス部会で初めてお会いできました。氏は同会設立当初からのメンバーで重鎮。定例会に出席する合間、歴史の表舞台に決して出る事はない壮絶な人生模様を伺い知ったのです。口数は多くなく穏やかな人柄、当時はOSC外新聞普及会社の現地代表として活躍されていました。
落合さんがHCM市のチョー・ライ病院で密かに泉下の人になってから10年が経過。「元気な間に当時の状況を纏めて本にしたい」と話されていましたが、その夢は叶わず儚くも幻となり、真実が世に出ることはありませんでした。
しかし落合さんの様に天寿を全うできた方は少なく、艱難辛苦を重ねた多くの方は意に反して物故。戦場で傷病を得たり、闇の中に忽然と消えて行ったりで二度と故国の土を踏めなかったのです。
司馬遼太郎は「人間の集団について・ベトナムから考える」で、「寿会のひとびと」「青木茂氏の風貌」「異郷を流浪する話」「桃太郎伝説」と4項に渡って述べ、そのなかで当時の東京銀行支店長から「寿会のひとたちがいなければ、日本の企業は南ベトナムにうまくは入れなかったでしょう」との証言を引き出しています。これは今でも同じ、先人が生死を掛け、真の誠意と努力を尽した結果が時空を超え日本の進出を有利に導いたと考えるべきですが、どんどん遠ざかる。
司馬氏は寿会と交友のある人から会うように奨められサイゴンで面会しますが、この世話役が「青木茂」。お名前の茂と出身が山口県は同じですが、姓が違う。同一人物なのでしょうが、何かの手違いなのか今となっては不明です。
25歳の時にハノイで終戦を迎えてそのまま残留。此処から数奇な運命が彼の許を逡巡、一旦日本に帰国して後、再びHCM市に戻りそのまま「サイゴン」が終の棲家になりました。苦労と裏切りの連続の場なのに、何がそうさせたのでしょうか?彼にとってようやく戦争が終わったのかと感じます。
図らずも波乱万丈激動の人生が始まりは、残留後に中国軍での自動車運転手。請われて一旦ベトミンに参加してから後、日本人同士やベトナム人同士が互いに戦うのに嫌気がさしてベトミンから離れます。生き延びるため中国人に化けたものの話せないことから周囲に疎まれ、身に危険が及ぶと匿ってくれた中国人の手引きで一旦中国に逃げのびます。日本人と分かっても互いに話さない、これが暗黙の承諾。同じ頃に突如姿を消した同胞もいたのですから幸運でした。
一年後再びベトナムに戻り、今度はフランス軍運転手に中国人として採用され、ベトナム女性と結婚。事情を知った軍属の勧めで日本人であることを釈明し、ようやく晴れて日本人と名乗り故郷に無事を知らせる事が出来たのです。
その後日本企業の通訳や会社の重責をこなし、1954年にサイゴンへ移って日本国籍を復活。日本商社会の世話役、残留日本兵のベトミン参加者の集まり「寿会」の世話役などをされます。
1975年戦争終結。サイゴン陥落後にも残ったものの、今度は公安当局から執拗に追及を受け、勧告されてやむを得ず愛妻と2人の娘を置き、ご子息3名と日本に帰国。こうして家族とはなれ離れになりました。
奥様は解放戦線の女性幹部、従って新政治体制から排斥されやっと日本に来てから安住の生活。家族に知らせることが出来なかった人に比べると、まだマシでした。だが奥様は1993年に亡くなり、落合さんはまたもHCM市に戻ることを決意します。
要約すればこの様な内容。しかし状況を知るに連れ、彼の小柄な体と物静かな語りからは想像を絶する怒涛の軌跡は信じ難い事。だがインドシナ半島は彼にとって熱き血潮に満ちた青春時代心身を奉じた証の地。まさに情熱大陸でした。
株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生