残留日本兵がベトナム独立に果たした役割 ~ベトミンとホー・チ・ミンさんのこと~

2019年12月10日(火)

インドシナとはベトナム・ラオス・カンボジアの3国を指します。南北に連なる長山山脈に遮られているため人種が異なり、言語に宗教、歴史は元より文化自然も違います。だがフランスは無理やりひとまとめに呼んだのです。
当時の政局やインフラ事情は現在と全く違い、移動に困難を極めたにも拘らず、残留日本兵はフランスの圧制から独立するため支援を行い、奮闘活躍します。このベトナム国内でも頻繁に北部と中部間を転戦するとか、ある者はラオス、カンボジア、更にタイへと渡って行きました。

フランスの植民地であったベトナムでは、抗仏のためベトミン(ベトナム独立同盟)が組織され、各地で仏軍との熾烈な戦闘が繰り広げられていました。
独立運動の最高指導者はホー・チ・ミン。自ら渡仏しフランス共産党に入党。民族解放へ協力の活路を得ようとしますが、この共産党でさえベトナムにとり収奪と搾取の何者でもないと分かり失望して離脱。その後34もの偽名を使い20年も国外を転々して活動をしますが、実はその実態は謎に満ちています。
ハノイには彼が起居した小さな木造りの茅屋が緑陰の中に残されていますが、結婚をせず?私生活は一切公表なし、実に質素な生活をしていたという伝記が数多く残されています。難しい言葉を使わずに、如何に貧しい庶民を惹きつけ革命を前進させるかに長じていたと言われます。
ベトナム人はホーおじさんと親しげに呼びますが、満面の笑みを湛え子供に接する時の飄々とし、タバコを愛飲する温和でベトナム農民の典型的なイメージと、社会主義革命の指導者としてハガネのような固い冷徹な意思。ソビエトで思想を叩きこまれ、厳しい訓練を受けて、これを実行。時には革命家としての顔で極めて冷酷な作戦指令を下しましたが、その落差と乖離はあまりにも違い過ぎており、普通のベトナム人には到底理解出来ないと思います。

日本のポツダム宣言受諾をいち早く短波ラジオで捉えるや、「革命にとって千載一隅のチャンス」と判断し、ベトミン本部で直ちに総蜂起を指令。8月15日、日本軍が降伏すると直ちにハノイの中枢機関を占拠、中部フエでは日本の傀儡であったバオダイ帝に退位を迫りました。そして彼一人で独立宣言の草稿に着手し1945年9月2日、バーデン広場で誇り高くベトナム民主共和国の独立を宣言します。彼はリンカーンを敬服していて独立宣言はまさにその精神を受け継いでいます。独立・自由・幸福という3文字はベトナムでレターヘッドによく使われますが、これはホー・チ・ミンの理想と意思を表現しているのです。
日本軍が当時仏印と呼んだベトナム・ハイフォンに進駐したのは1940年。殆ど戦闘行為はなかったのですが、1945年3月9日、日本軍は「明号作戦」とよばれたインドシナ駐留仏軍を一挙に総攻撃。軍事制圧して武装解除させ、ここに約百年に及んだフランスのベトナム植民地支配に幕が下ります。
日本軍のフランス軍攻略以降ベトミンは武力闘争を激化させますが、ベトナムを勝利・独立に導いた裏には残留日本兵の無辜の貢献と教育がありました。
日本の敗戦後、帝国陸軍で叩き上げられた元日本軍兵士は、階級や立場はどうあれ武器弾薬類の提供はもちろん、戦闘には素人同然のベトミンに戦い方を教え精神を鍛えたことがフランスに勝利し、後のアメリカとの戦争にも勝利したということをベトナムでは未だに忘れていない人も多くいます。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生