残留日本兵の活躍とベトナムに残されたその家族

2019年12月13日(金)

軍人の中には陸軍士官学校出の、アジア解放理念の持ち主である優秀で知的な将校も残留。ベトミンの将軍と親交を結び独立運動へ参加を決意します。
井川少佐は戦略戦術・兵員訓練をフランス語訳で執筆し、ベトミンの指針へと誠を尽くします。しかしフエ南部で作戦中に仏空軍機の機銃掃射を受けて被弾、33歳の若さで散花します。
また日本陸軍史上最年少佐官の石井少佐は、ベトナム初のクァンガイ士官学校を設立して教鞭をとりトゥイホア軍政学校長を歴任しました。中でも近代戦術や秘密戦の戦略・戦術に長けており、仏軍が最も警戒した人物でしたが、突然行方不明に。戦死説、暗殺説が入り乱れますが真相は謎のまま。
この士官学校には8人の日本人教官がいたと記録され、さらに100名の日本人が集結していましたが全員ベトナム姓を名乗り、ベトナム人の教え子を率いて共にフランス軍と勇壮に戦います。

ベトミン組織はインドシナ共産党下ですが(1951年以降ベトナム共産党)、共産主義イデオロギー闘争とは異なりフランスから自由独立のため、愛国者が徹底抗戦を行う純粋な国家主義であると残留兵が理解。しかも軍事知識を全く持たない弱い集団。独立支援のため支援を必要としたのです。
しかし1950年以降、中国ソ連という同じ社会主義国の軍事顧問団が入ってくると状況は一変、徐々に日本人の果たす役割がなくなるのです。
1952年まで退役勧告に応じて除隊することになり、更に民主共和国政府は日本人へ本国帰還を通告。都合よく利用され体のいいお役御免。殆どの残留兵は南北統一を自分の目で確かめる事はありませんでした。

また残留したけれどベトミンに参加せず、一介の文人として民主共和国政府に協力した人も居ます。政府にとって近代的な財政と金融改革は重要事項。知識を生かして大臣直属として国立銀行の設立に尽力。帰国後日越経済技術協力会を創設しベトナムを経済・技術面で支援を続けます。
残留兵帰還劇の裏には残された日本人とベトナム人家族の悲惨で残酷きわまる物語があります。日本への帰還は秘密裏に行われた結果、家族の誰もが夢にも一家の主が帰国したとは思わなかったというのが真相。
残留日本兵の独立への献身と貢献を知っている年配者はいいとしても、事情を知らない若い人達は残された家族に悪い印象を持っていました。そのひとつに「二百万人餓死事件」があります。日本軍が軍事物資としてジュート麻を栽培するため田を潰した結果、大勢が飢えて亡くなったというもの。
餓死した事実はありましたが、台風で南部から米が届かなかった事、フランスが日本へ報復のため米の流通を停止させた事、華僑米商人が投機を狙い流通を阻止した事が重なったのが原因。実際は40万人位死亡との説もありますが、いずれにしてもベトミンが反日・反仏の情宣活動に利用した結果、噂が大きく膨らみました。いつの世にも相手の嘘に負け、情宣が下手な日本です。

日本は南ベトナム政府には戦後賠償を行いましたが、北の社会主義民主共和国政府を承認せず、賠償も行わなかったことにも原因の一端があると考えます。
残留兵がベトミンに参加したのはハノイを中心とした北部ですから、残された家族も従って北で生活しているため被害を受ける訳です。日越関係が良くなってからは劇的な対面を果たすことが出来た家族も居ましたが、多くは引き裂かれたまま消息すらつかめない状態であったといいます。
かつて知り合いを通してヴィンに居たベトナム人から「日本人の父の消息を知りたい」と依頼がありましたが、全く居所が判りませんでした。
日本政府が貧困地域に学校などを無償援助で建てるのは、一種の無言の贖罪なのかと思えます。とりわけゲアン省はベトナムでも貧困度の高い地域ですが、国籍はベトナムであっても日本人の血を受け継ぎながら、世に出る事が叶わず、何の保障や援助も無く、困窮生活を余儀なくされたまま、忘れ去られた人達がこの地にも大勢居ます。歴史に翻弄され、戦争が生んだ悲劇の一コマで真実を隠蔽された一介の罪なき民間人である彼等から人生の全てを奪ったのが戦争。
ちなみにゲアンはホーおじさんの生誕地でもあります。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生