懐かしのフエ 南学日本語学校を知っていますか?

2020年8月10日(月)

先日の事、ベトナムビジネス研究会というグループの会合(旧関西社会人大学院連合の部会)で、在阪ベトナム人H氏が中部のフエ市にあるフエ大学の中に日本語学校を設立したと発表を行いました。大学の協力は勿論だが取得が難しい人民委員会の許可が必要、容易ではありません。よくやれたと感心します。
H氏は大阪在住早や20年、日本人の配偶者が居ますが、ご自身でも日越間でビジネスを行います。今回は縁があってフエで日本語学校を創り、さらに大阪でも日本語学校の設立を申請中と言います。此処ではフエで日本語を学習した後に来阪して磨きをかけるという計画とか。
このフエ市はベトナムの地方都市の中でも日本語が最も通じる所で、私にとっても想い出の場所。溜り場はマンダリンと言う有名な写真家でもあるクーさんが経営する馴染みのカフェ。彼の地に数少ない日本人である朋人が住んでいて、一緒に此処を拠点にして近辺をくまなく逍遥していました。
気候は厳しい。夏はとんでもなく暑く、冬は寒い。しかし此処にかつては王朝(グエン朝)があり、優秀な人材が育ちました。いまもある高校、クオック・ホック(国学)。此処は元々国子監、グエン朝が設立した大学で皇族や朝廷高官の子弟や地方からの優秀な人物を受け入れ、科挙最終試験である廷(殿)試を受けるため1895年に設立された由緒ある学校。ホーチミン主席や、ヴォ―・グエン・ザップ将軍、ファム・ヴァン・ドン首相、ゴ・ジン・ジェム大統領、コラムにも書いたファン・ボイ・チャウなど、歴史上の重要人物を多数輩出しています。現在はベトナム国内有数の進学高校ですが、かつて男子校でした。
フエ市は日本でいえば京都。水清きフォン河(香河)が市内を流れ、王宮跡や歴代皇帝の廟がある観光地。また古刹寺院と大学教育の盛んな中核文化都市で
京都市とは友好都市になっています。料理が美味しい、美人が多いという話は古今東西同じで、王宮が全国から人や食材を集めたのです。
では何故この世界遺産の古都フエ市では日本語が通じるのかと言えば、かつて南学日本語学校があり、日本人が駐在して教えていたからです。
入学試験は厳しく倍率は数百倍にも。募集は毎年僅かに20名。優秀な人が集まってきました。授業料は無料、どころか奨学金が毎月支給されていました。期間は2年間。朝から夕方まで授業が続き、宿題も出されたので他の学校とは大きく異なっていました。
このため此処の卒業生は日本語能力試験の成績が圧倒的に高く、多くはハノイやHCM市で活躍しています。中にはフエ市に残って日本語学校を開いた女性とか、日本へ行きそのまま残って結婚した女性もいますが、脈々と伝統は受け継がれています。
フエは日本と関係が深く、明治時代に初めて日本へ留学生を送った東遊運動の発祥の地と言っていい。また日本軍や軍に協力する会社(機関)の人達もこの地に多く居留していましたが、一様に親切であったと聞いた事があります。
2008年には日本政府が日本語教育を小学校に行おうと計画し、HCM市とハノイ以外ではこのフエ市を選定。担当になったのが元南学フエ日本語学校の責任者Kさん。現地の実務者がこの学校の最後の卒業生で、私の友人であったANHさん。偶然にもHCM市で同じ会社に在籍しましたが、縁は繋がります。Kさんは日本の大学で日本語教育の学位を取った人。単なる日本語教師ではないプロで、自ら志願して卒業と同時に赴任しました。
現在は高校でも日本語学習があり、1000名が学んでいると言います。

営利目的ではなく、そこまでどうしてできたのか!その訳は、南洋学院と言う
日本外務省が管轄した専門学校が発端。1942年~45年僅か3年間の存在でした。当時のサイゴンはアジアで最も進歩した貿易都市であり、此処で語学や貿易・経済、農業などの実務を勉強。その数約110名。戦後45年を経て、1990年に卒業生が青春を過ごした地に感謝の気持ちで設立したのが、この「南学日本語学校」。1991年にHCM市の現人文社会科学大学に開設された初めての公的な日本語学校と言う次第です。1993年にはフエ師範大学内にも設立しました。
学校の運営は全て南洋学院の卒業生と一部企業の寄付。しかし支援者の高齢化が進んで資金難に陥ったため活動は制限を余儀なくされます。1998年にはHCMの学校を一時停止、2000年にフエも閉校せざるを得なくなります。 
当時の新聞にも大きく掲載されました。先のKさんはHCM市に移り、日本の会社が造った日本語学校の責任者になって指導教育を続け、その後JICAのベトナム小学生日本語教育プロジェクトに貢献。裏話も沢山あります。
南学日本語学校は設立して十数年で幕を下ろす結果となりましたが、時代の流れの一コマかもしれません。しかしベトナムでの日本語教育の普及に果たした役割は大きい。まだ大学への進学率が一桁はおろか、能力があり学びたくても貧困が許さず、高等教育を受けられる人でさえも少ない時代。ドイモイ政策により徐々に外国資本が入ってきて経済が成長してゆく段階です。この時に求められたのは語学が出来る人材。充分な教材はないが、外国の文化やビジネス、知識の吸収にハングリーで優秀な人は真剣になって外国語を学びました。
「南学の前に南学なし、南学の後に南学はなし」という言葉がありましたが、もはや学校の存在を知っている人は日越問わず殆どいません。豊かになって来た今、多くの日本語学校ができ全国で3万人が学習しているとか。南学日本語学校はこの礎を築いたと言っても過言ではありません。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生