この様な冷酷非道で残忍な統治は人民の反感を買い、抗仏運動へ発展して行き自からの手で首を絞めることになります。アンリ・ルソー、モンテスキュー、ボルテールという18世紀を代表するフランスの啓蒙思想家、さらにフランス国旗の「自由・平等・博愛」というフランス革命の思想、が皮肉にもベトナム人の意識に強い影響を及ぼしたのです。
また統治下で養成したベトナム人のエリートや官憲教育も、彼等の組織つくりと訓練の機会を与え、強制的に文字の改変までさせたクオック・グーの普及は、むしろベトナム人へ民主主義を啓発する役目としてブーメランになります。
そういった中で徐々に民族意識に目覚めた知識人や独立運動家が出始めます。しかしその基盤は弱く、組織は横にも縦にも繋がっておらず、バラバラのため断続的に小規模に起きる蜂起は直ちに鎮圧されるばかりでした。
フランスに反旗を翻したフエ王朝第8代幼帝ハム・ギは、同じフランス植民地であるアルジェリアに流されます。ハム・ギは1884年6月6日にフランス公使パトノウトルと条約を結びますが、これはフランスの植民地になることを狡猾に記載していた一方で、彼は条約に書いたことを守らなかったため、幼帝は5000人の宮廷官吏と山中に3年間立て籠ります。だがついに1888年11月に捕捉されて島流し。フエ王朝はこの後13代、最後の皇帝で操り人形のバオダイまで延々とフランスの支配が続くことになります。
ベトナムでは英雄や功績ある人物の名前が道路の名称に使われますが、フエ朝の歴代皇帝で名前が残されているのは、唯一悲劇の帝ハム・ギだけ。
1945年日本がポツダム宣言を受諾して第二次世界大戦が終戦。フランスは英米の援助を受けながら再度インドシナの植民地経営を再開します。しかし、46年には第一次インドシナ戦争が勃発。徐々にフランスの国力は坂道を転がる様に低下。一方ベトミンが優勢に立ち、爾後好転する事はありませんでした。
このような状況が続く中、フランスは起死回生を図るため大勝負に出ました。舞台になったのがラオス国境の盆地「ディエン・ビエン・フー」だったのです。この地はかつて日本軍が飛行場を作ったところでもあるのですが、この地を選んだ目的はベトナム~ラオス間のベトミン輸送路を遮断することと、位置的には北部山岳地帯なので進入する敵を攻撃するのに地形的に有利。しかし実際には四方を山に囲まれた大きなすり鉢状。下手をすれば逃げ場がなくなることが予測できた筈でこの選択は疑問です。しかし飛行場があったほど地面は平坦で、飛行機での補給や落下傘部隊の降下にとっては好都合であるとの判断が派兵に功を奏しました。
53年秋になると15000の仏軍が集結して盆地内の要塞にたて籠ります。ベトミンをおびき出すには格好の地であり、18ヶ月でベトミンを壊滅させると強気で意気込んだのは仏軍の総司令官カストリ大佐。この作戦には国防大臣や軍の参謀本部でさえ自信満々、戦勝を疑いませんでした。
彼らには近代兵器がなく、大砲も使いこなせない。その様な重火器を運び上げる機械や車両もないというのがその理由。だがこれは完全にベトミンを舐めきって軽く見た慢心。ベトミンの強烈な独立への意思、現地の気候条件を余りにも知らな過ぎました。そしてその様な甘い夢はまもなく見事に打ち砕かれるのです。
ディエン・ビエン・フーの戦いは今なお当時の記録フィルムがテレビ放映され、映画にもなっていますが、過酷な自然条件のなかでベトミン兵士が満身創痍の人力でジャングルを切り開いて道を作り、工兵隊は橋を架け後方の作戦本部を築き上げ、兵士は馬や水牛、350キロもの荷物を積んだ自転車、荷車など前近代的と言える道具を駆使。山をかけ登り、ぬかるんだ丘を越え、人海戦術の末500門もの大砲に火器類、食料等を相手の射程圏内へ引っ張り上げました。かつて日本軍が保有した重火器や武器、砲弾なども有効活用しています。
4師団9万人近く結集したベトミンは、ヴォー・グエン・ザップ将軍の指揮の下、無数の塹壕を掘ってフランス軍への総攻撃と応戦態勢を準備、1954年3月13日総攻撃を開始しました。
将軍は仏軍がこの地に要塞を築き総力決戦に持ち込むことを予想して、兵隊の訓練や装備などの備えを怠りませんでした。
ベトミンを舐めきった仏軍はベトミンからの砲撃を全く予想せず、また要塞も不十分で瞬く間に劣勢に陥ります。雨季に降り続く冷たい雨はベトミンに味方。病が蔓延し、膝まで浸かる泥に埋まって身動きが全く取れない。狭い要塞では死体を収容できず悪臭に満ちます。劣悪な環境では負傷者の手当てや救助もままならず地獄の悪夢が続きます。悪天候で援軍は期待できず、補給路が絶たれ食料弾薬も底を尽き始め時間だけが過ぎるばかり。焦燥感だけが募ってきます。
株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生