・クォン・デ 一時故国に帰る
香港に滞在したクォン・デは、南部での人気が依然高いためベトナムに戻って活動資金を得ようと考え、単独サイゴンに行くことを決意。1913年、7年ぶりに上陸します。
この時のサイゴンはプチパリと呼ばれる華やかな大都会。しかしメコンデルタ入り口のミートーにそのまま移動し、日本に留学した青年に再会します。
クォン・デが来た!直ぐに噂が伝わり人々は歓喜して献金。圧倒的人気だが、これでは居場所を教えるようなもの。当局に捕縛される危険性が高く、やむを得ず河に浮かべている小舟での生活を余儀なくされます。
ミートーには3ヶ月ほど滞在しますが、故国に足を踏み入れながらも懐かしい家族の住む王都フエに戻る夢は無念にも叶いませんでした。
香港に戻ってからクォン・デはイギリス官憲に逮捕されます。だが移送の途中で同情した中国人看守が彼を逃がしたのです。此処も危ないと判断ヨーロッパに行きますが成果は出ず、1914年5月、日本に戻り爾後東京に定住します。
・チャウもまた日本へ
広州に居たチヤウ。孫文は清朝から寝返った袁世凱に攻撃を仕掛けたものの、破れて日本に亡命。チャウは内戦中に革命派との関係を疑われて投獄されます。その後、孫文は勢力を盛り返し反撃に転じて勝利。チャウは4年間の獄中生活からやっと脱出、またや日本に戻ります。
監獄にいた間に第一次世界大戦が始まりますが、チャウは独立への千載一遇の機会だと喜び勇みました。クォン・デも戻っており、犬養などにも面会。特に大恩のある浅羽佐喜太郎へ不義を詫びたかったのです。しかし浅羽は8年前に他界。チャウは義理堅く感謝の気持を伝えるため高さ2,7Mの石碑を浅羽村の常林寺境内に建立。1817年(大正7年)3月のことです。
・同国人からの裏切りで
日本で資金を得たチヤウはまたも中国-雲南へ。振武学校を出た中国人で士官学校を卒業後、軍長官になった人物がいるのでなりふり構わずに協力を求めますが、全く反応はなく無駄足。また彼の地にはフランス軍が駐留しいて、それどころではなく早々坑州に引きあげます。
暫くしてゴックという青年が来訪。彼は抗仏闘争の指導者で、英雄でもあったファン・ディン・フンの遺児だと名乗ります。話では今度の総督は社会党員で、今迄の人物と考えが異なっていてベトナムと提携する事を望んでいるとある。チャウは信用して「フランス・ベトナム提携意見書」を書き青年に託します。
ところがフランス当局から、チャウに革命思想と独立運動を放棄すれば安全を保証し、フエ朝廷での役職を与えるとの連絡がありました。だが何かおかしい。
ベトナム国内でこの提携意見書が配られ、これを見た支持者はチャウの変化に衝撃を受けます。彼は騙された。慎重さに欠け、考えが甘かったと罠に気付くが後の祭り。全てが無に帰してしまいます。訓練され情報を掴んでいた当局には勝てませんでした。
・ホ―・チ・ミンとの出会い
チャウはもう一人の青年に会います。彼の名はグエン・アイ・クォック。後のホー・チ・ミンで当時34歳。チャウは彼からアジア被圧迫民族連合会を作るように勧められます。国際コミンテルンから指示された革命思想を伝ますが、アジアの人民が連帯して植民地解放のため支配者と戦う。この考え方に直ぐに共鳴します。強い意思を持つ情熱家であるが見境なく浅慮な性格は治りません。
アイ・クォックの父親グエン・シン・サックはチャウの友人でゲアンの人。
科挙に受かりながら元々官吏嫌いのうえ酒で失敗。地方で教師をしていました。チャウはまだ幼少だったアイ・クォックに日本へ留学するよう勧めましたが、彼はフエの高校(クォック・ホック)に進学。汽船に乗組んで世界を回り見聞を広めた後、フランスへ戻り社会主義活動に入ってゆきます。
・独立運動の終焉
1925年、チャウは共和制を光復会で検討するため広州へ向います。しかし運命は彼を独立活動から引き摺り下ろし、解放への闘争は壊滅してしまいます。
上海の駅を降りたところでフランス当局が拘束。一瞬の出来事。密告した人物がいました。フエンという青年で南部の長老ヒエンの甥とふれ込み、チャウの許を訪れていましたが実は当局のスパイ。彼の行動を逐一報告していました。
チャウはハノイに送られて終身刑を言い渡されますが、総督アレクサンドル・ヴェランヌはチャウに教育大臣になるよう説得するも拒否。そのため減刑してフエで監視付き軟禁処分を命じました。チャウを死ぬまで牢内で留め置けば、何かが起きる・・声なき世論には抗えられなかったのです。
チャウは1940年10月に亡くなるまで15年間、無念のうちに蟄居の身を過ごすことになり、生命を懸け波乱に富んだ独立の夢は儚く消え去りました。
棲み処は現在記念館になっており、浅羽と親族は2014年に訪れています。
株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生