海外旅行人気観光地NO1 ご案内②

2019年9月3日(火)

この時代、正規の朱印船だけではなく、海賊和寇の<マストに南無八幡大菩薩と大きく書いた白帆を翻した>八幡船、が密貿易をしていました。これは大砲などの軍備を持たない今で言えばせいぜい70トンくらいの小さな船。しかし
突如波濤を越えて現れ、銃はおろか刀剣しか持たないのに、戦になっても一人として降伏するどころか海にも遁走せず壮烈な死に様を見せるため、イギリスやオランダの軍艦などはその勇猛振りを最も恐れていたのです。
当時、日本人と安南人との間に生まれた子供でも、父親といえば元武士も多く、その矜持を忘れない様に厳しい作法と躾をしされており、如何に日本人は規律が厳格であったかを示します。
明朝末の儒者で志士でもあった朱舜水は追われて日本に来た後、このホイアンに明を再興するため渡ってきました。このとき世話をしたのが大阪城の侍大将であった後藤田弥兵衛ということさら度胸のある人物。当時日本人町を統率していたといいます。
碩学朱舜水は安南国王と諍いを起こし、日本人には迷惑をかけられないとして再び日本へ戻ります。この原因は安南国王がすでに明国が衰退し始めていた事を知っていて、清に覇が変わるであろうという中で、高名な朱舜水を王宮に招いたものの、落ち目の明国の学者を蔑んだ事もあったようです。朱は万治元年(1659年)日本に帰化しますが、明はその後に滅亡します。

日本橋を渡って西側に入った一角に日本人町があったとされます。しかし1676年、平野屋谷村四郎兵衛と言う人が日本へ手紙を送り、日本人はもう二人になったということを最後に伝えました。現存する日本人の墓は3基、市内の民家に2基、田んぼの中に1基、夫々が代々手厚く祀られています。
鎖国で帰国できなくなった日本人はリーダーの下、誠実で礼節正しかったそうで、行政府から信任され自治を認められていたとあります。評価を受けながらも、しかし中国人の様に寺院を建てるなど、外地に生きた証を残さず短期間でホイアンの地から消滅したのは、役人に現在のミトーなどに半強制的に入植させられたことに原因があります。
この時代南部地域はクメール(カンボジア)の領土でしたが、これを奪うため、王国から恐れられていた律儀で勇敢な日本人は、明人などと共に南進の先鋒として体よく放逐された言う説が有力です。
領地を奪われたカンボジア人はベトナム人を未だに嫌っています。だから今でもホーチミン市をプレイノコール(カポックの森)と呼んでいます。

ミトー(My Tho)美人という言葉があります。南部の暑い熱帯地域にかかわらず確かに色白で華奢、綺麗な娘が多く、これは元来土着民が居なかった土地に日本人、中国人、そして京族などが入り混血を重ねていった結果だと考えられ、この歴史を考えると納得できます。
明の滅亡後1679年、まさに鄭成功が亡くなった頃。明国人が3千人、50隻の船でホイアンへ亡命して来ます。しかしホイアンは狭くて全員を受け入れることができないとの理由で政庁は南部へ入植させ、開墾した土地は全部与えるとしたのです。
ホイアンには潮州会館と言う会所があります。明国からやって来た末裔が住み付いた証明でベトナム各地に存在します。

チンギスハンはチャンパを征服しようと1278年に軍を派遣しました。王は戦を回避しハンに臣下として仕えると約束、毎年貢物を送ったとマルコポーロは東方見聞録に書いています。一番の贈り物は象でした。
香を焚くのはチャンパの風習。日本が最も必要とする香木で富を得たのです。
ホイアンはランタン祭りの夜が綺麗。一日チケットで名所を見ながらゆっくり散策が出来ます。

株式会社VACコンサルティング 顧問
(IBPC大阪 ベトナムアドバイザー)
木村秀生